小山田問題でカズレーザーより太田光に分がある理由 SNS・法・当事者性の観点から


小山田圭吾、小林賢太郎と、次々と東京五輪の関係者に問題が現れ、退任。これについてさまざまな論議が繰り返されるが、どれも説明が十分でないように思われる。いくつかの議論を参照しながら、整理し、考察したい。


■『Quick Japan』を読むと…

問題は、小山田のかつての障害者いじめ自慢についてである。1つの大きなポイントが、過去の話である点。

ここについては、7月18日の『サンデー・ジャポン』(TBS系列) や続く『JUNK爆笑問題カーボーイ』(TBSラジオ系列) でも、爆笑問題の太田光が、雑誌記事上の「時代の価値観」について言及し、話題。

実際、切り取り報道ばかりの中、1995年刊行『Quick Japan vol.3』の件の詳細な特集の全文を読めば、実際は、中高になると、小山田は障害のある友人を気に掛けていた人物となっている。

カズレーザーの問題提起

同じく『サンジャポ』では、メイプル超合金のカズレーザーが、「批判の声が大きいというのは、マイナスを埋め合わせる作業を単純にしてなかった」とコメント。

ここでは、贖罪のあり方が語られているのだろう。進化生物学的にも確かに公平性の観点は重要で、罪が処罰を受けていないことへの人々の憤りは理解できる。

■法治主義の原則

爆笑問題・太田光

しかし一方で、法の処罰をすり抜けたにせよ、それでも処罰は法によるべきとする法治主義について唱える論者は、哲学者の東浩紀氏、社会学者の古市憲寿氏、また先の太田と多い。




SNSによって、人々が直接に意見を表明しやすくなった今日、それは利点であるとともに危うさも伴う。


■SNSの問題性

太田が『カーボーイ』で人が人を裁くことの危うさを唱えた際、ウェブ上では、これを現代の「魔女狩り」とするコメントも見受けられた。社会学者のエミール・デュルケムが集団儀式を表す「集合的沸騰」の概念も当てはまる。

「集合的沸騰」は人々に必要なものではあるわけだが、個人を裁く際に用いられるべきではないだろう。

■私刑の危うさ

カズレーザー

ただし、仮に、主に小学校時代が中心だとしても、小山田の障害者いじめの事実はある。法が裁かない罪が人々に問われる事態は、一方で免れない面もあるだろう。その際にはつまり、SNS炎上によって、罪が裁かれすぎないことが重要。

カズレーザーは、贖罪のあり方を問うたが、実際に小山田の場合でも、小・中時代のいじめを反省し、障害者の友人を高校卒業まで気に掛けていたととることもできるだろう。

障害者施設への寄付が必要など、いったい誰が何の権利で審判をくだすのか。建設的提案ならばよいが糾弾ならば危うい。


■当事者性

そこに古市氏が指摘した「当事者性」の重要性がある。「MeToo運動」でも、当事者が告発するから後からでも問題が明るみに出るのだ。

またここで、事実性すらおぼつかない『Quick Japan』以外の過去の記事を素材に審判を下すことや、「時代の価値観」を問わずに今の価値観で『QJ』含む雑誌記事を批判の参照点とすることの問題性がわかるのではないか。「法の不遡及」原則ともつながるだろう。


■SNSとマスメディア

今回のケースが、いかに危うい素材の上で炎上しているかが窺える。結局、小林の20年以上前のコントから問題部分を掘り返し、新たな解任劇にも至った。

わざわざ過去の作品の一部の問題性を世界に発信し、直接に当事者団体から抗議を受けることにどれほどの公共性があるのだろうか。小山田の件も、国内議論も危ういまま、世界に発信されてしまった。

速報性のマスメディアと集合的沸騰のSNSの結合の審議能力に警戒することこそが、現代の重要な公共性であり、倫理性だろう。