
基本情報
所在地 静岡県島田市菊川
標高(比高) 220m(120m)
遺構 馬出、横堀、土塁、竪堀、井戸
歴史
諏訪原城は天正元年に武田勝頼が馬場信春に命じて牧之原に築かせたといわれている。天正二年には高天神城を攻略し、翌三年には長篠城を包囲していたが、織田・徳川連合軍に大敗し遠州における攻守は逆転した。その後徳川家康は諏訪原城を攻略し、この城を「牧野城」と改め、城番をおいて駿河に対する最前線拠点とした。また一年間にわたり駿河進攻の旗印として今川氏真もおかれた。氏真が浜松に移されたあとも定番衆と呼ばれる者たちが1ヶ月後とに交代で城番をつとめた。天正十年には武田氏が滅亡したため牧野城は軍事的役割を終え、家康が関東に移ると廃城になったと考えられる。
縄張り
諏訪原城は牧之原台地の北端に近い台地に築かれている。
台地を堀込んでつくられた巨大な横堀が巡らされており、台地の端部が主郭であるⅠ郭、横堀を挟んだ向かい側に二の曲輪と呼ばれるⅡ郭がある。Ⅱ郭には諏訪原城最大の特徴である丸馬出が設けられており、6つの馬出が見られる。
馬出Aは半円形の馬出遺構であり内部が一段高くなっている。南北に土橋が伸び、北の土橋は馬出Bに連絡する。馬出Bは略方形の馬出となっており西面から南にかけて土塁の遺構が見られ、南西隅に外部に連絡する土橋がある。台地の先端にあることから北方面の物見も兼ねていたと思われる。この2つの馬出は重ね馬出として機能していたものと考えられる。
馬出Cは大手口にあたる丸馬で、現在は諏訪神社が置かれており、内部は改変を受けている。南の土橋は9mと広くなっているが後世の改変と思われる。
馬出DEFは2つの重ね馬出となっている。馬出Eは典型的な丸馬出でⅡ郭から馬出Dを通って連絡し、南北の土橋で外部に連絡する。馬出Fは後方の堀を仕切る土塁が土橋となって馬出Dと連絡しており、直接繋がらない関係上馬出としての機能は低くなっている。この馬出も台地の先端にあり馬出Bと同じ機能をもっていたものと考えられる。
Ⅱ郭の東側には破壊されているものの横堀が残っており、ここが大手曲輪と呼ばれるⅢ郭であった。Ⅰ郭の南には水の手曲輪と呼ばれるⅣ郭も存在しており、さらに東方面には出曲輪であるⅤ郭も存在した。Ⅴ郭は土地改変によって破壊されている。
またⅠ郭北側の平坦地はもともと横堀であったものが道路の開発で削られたものである可能性が高い。
Ⅰ郭とⅡ郭の間の堀とⅣ郭にはそれぞれ井戸が存在し、さらにⅠ郭南の谷部には横堀への侵入を妨げる竪堀が見られる。
諏訪原城の縄張りは武田氏の典型的な縄張りと言われていたが、発掘調査でⅡ郭よから西側はほとんどは徳川氏による改修であることが確認された。武田氏時代はⅠ郭と馬だしDF辺りにあった出丸のみであり、Ⅰ郭の土橋の先にはかつて丸馬出があったと推定されている。

写真
参考文献
加藤理文・中井均 2009 『静岡の山城ベスト50を歩く』サンライズ出版
中井均・加藤理文 2020『東海の名城を歩く 静岡編』吉川弘文館
静岡県榛原郡金谷町教育委員会 1987 『遠江諏訪原城 大手曲輪跡発掘調査報告 〈増補版〉』












