今朝は、茂木健一郎先生の 「シラスフロントロー」 でした。
東浩紀さん著 「平和と愚かさ」
以下、載せた文になります。↓↓
哲学書だと思い、また本の厚みを見て、果たして理解できるのだろうか…と身構えて読み始めた。しかし読み進めてみると、世界各地への紀行文の様でもあり、専門用語も少なく感じられ、知識に乏しい私でもぐいぐいと引き込まれていった。
世界各地で、繊細で綿密な取材をされていることに驚いた。過去と現在の隅々までを見落とすまいと、世界を真摯に見つめる著者の眼差しと考察は、鋭く深く、深い潮流に届く井戸のようであった。
また、時空と距離を越え、雲の流れを見通す視点のようでもあった。とにかく広大な試みで圧倒された。哲学の歴史の上に、更に一歩を踏み進めた著者の思考に震えた。
「平和と愚かさ」に真っ向から挑み、本書を執筆してくださり、心より感謝申し上げます。
(付記)
私は人の似顔絵を描く。学生の頃は電車で寝ていたり本を読む人の姿を描いた。それをたくさん集めて展示をしたことがある。その時に、からい批評をもらった。「一人一人は違って、すごい人かもしれないのに、みんな同じに見える」と。
自分で言うのもなんだが、一人一人違うように描けているとの自負があったので、この時は、称賛してくれる人の声に耳を傾けて満足していた。
けれども、「平和と愚かさ」の中にボルタンスキーの話が出てくる(p.197)。それは私が、何かすっきりしない思いをボルタンスキーの作品に対して抱いていたことを、見事に言葉にしてくださっていた。
そうか、固有名を消し去る作業を私自身もしていたのだと気づいた。電車で似顔絵を描く時に、その人の名前は聞かないし、もちろん職業も知らなかった。相手を知らずに描く行為は、七三一部隊のマルタと根底でつながる気がして、背筋が寒くなった。
1977~1979年に中国に住んでいた時、母は石を投げられたことがある。日本人だったから。母はそのことを苦い記憶として(被害者意識)持っている。
中国の幼稚園の先生は、人にケガをさせることは酷いことだと、特に日本人である私に教えたかったのではないかと思う記憶がある。むろんその時の私は日本人中国人と区別がなかったので、歴史を知った後で気づいたことだ。
額から顔に血を流して泣いている子を、みんなの前に立たせて、先生が怒っている。私に向けて怒っている気がした。私が石を投げてケガをさせたのではないかと、自分を疑った日だった。
先生は日本兵を心に抱えていたのかもしれないと思ったのは、のちに日本に帰国して南京大虐殺の映像を高校の授業で見た時だった。クラスの皆は、神妙な面持ちで、でも授業が終わるとすぐ教室を出ていった。そのことに、私はわずかな不満を抱いた。
なぜ愚かなことが繰り返し起きてしまうのか。テーマパークにたとえた考察も興味深かった。平和と愚かさについて、自分自身が問われる、そのひとつの解答の形をもらったような読書体験だった。
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