日本学術会議は、科学者コミュニティーの戦争協力を反省して、1950年に安全保障研究に対して「戦争を目的とする科学の研究は絶対にこれを行わない」旨の声明を、そして1967年にも「軍事目的のための科学研究を行わない声明」を出して以降、軍事研究や安全保障研究にNOの姿勢を貫いてきた。2017年3月に出された声明で改めて、その姿勢を示している。

「すなわち、軍事的な手段による国家の安全保障にかかわる研究が、学問の自由及び学術の健全な発展と緊張関係にあることをここに確認し、上記2つの声明を継承する」

つまり学術会議は安全保障研究は学問の自由と学術の発展とは相入れないとの見解を示している。

学術会議では独立性の担保と謳われながら、実際には政府の介入が施されている法案がなされている。完全に同じではないにしろ、ハーバード大学でも、トランプ大統領による介入と戦っている。だが学術会議の問題と、ハーバード大学が直面してる問題は、本質的に似ているとしても両組織の体制は完全に異なると言える。なぜなら、ハーバード大学で教鞭を取っているスティーヴン・M・ウォルト氏は安全保障研究を学問から切り離すことに警鐘を鳴らしているにも関わらず、ハーバード大学から何かしらの抑圧を受けてはいない。

ウォルト氏は、安全保障研究を学問に関する歴史について記した論文を書いた「安全保障研究のルネサンス(原題:The Renaissance of Security Studies )」において、安全保障研究を学問から切り離すには2つの危険性があると指摘する(Walt, p.229)。

第一に、戦争は今後も危険であり続けるという。例えば、国際社会には2つの弱点がある。1つ目は、今ある秩序を毀損しようとする集団の影響を受けやすく、脆いこと、2つ目は、そのために国家は軍隊を持たなければならないことである(クリストファー・コーカー『戦争はなくせるか?』p.84)。

また、平和であるということは、フランシス・フクヤマ氏が予測したような「退屈な世界」であろう。しかし、英国の歴史家マイケル・ハワード氏が『平和の発明(原題The Invention of Peac-e)』で論じたように、むしろ人間は退屈を嫌うために戦争などの攻撃行動に出ることもある。

戦争は、ハンス・モーゲンソー氏が論じた人間の本性が原因なのか、ケネス・ウォルツ氏が論じたような国際システム(第3イメージ)原因なのか。それは定かではないしろ、コリン・グレイ氏が喝破したように「どのような形であれ、「平和」というものが形成されるということは、その後に「戦争」という時代が来るということだ」(『戦略の格言』p.28)。

第二に、国家を過去の過ちから学ぶことを可能にする。前述したように、安全保障研究を抑圧してきた国家は歴史が示唆するように、大惨事に見舞われる。

例えば、1930年における大日本帝国の大陸進出は、こうした安全保障の議論もされずに行われてきた。特に1937年の盧溝橋事件は、確かに偶発的な事件ではありながら、「これを全面戦争やな導いていく意思と能力を持つ・・・推進力は、日中どちら側にも存在しなかった」(戸部良一『ピース・フィーラー』p.26)にも関わらず、日本は自らの手で日中全面戦争を切り開いた。これらの原因には近衛文麿の思想や、軍内部の抗争、つまり安全保障ではなく、身内の政治事情なのが主要因であり、後の太平洋戦争の破滅へと繋がる。

他の面で擁護してみよう。ウォルト氏は安全保障研究を「安全保障学は軍事力の威嚇、使用、管理に関する学問として定義できるかもしれない」と述べる(Walt, p.212)。であれば、今現在で問題になりつつある有事の際の住民避難も安全保障研究の1つになりうるし、そもそも専守防衛を掲げる日本にとって重要ではないだろうか?

小川健一氏は、作戦・戦闘レベルでの専守防衛作戦の可能性と限界を分析した結果、専守防衛作戦は自国内で戦争をするため、地の利を活かした戦闘が行いやすく、攻撃国の軍隊に損害を負わせやすい可能性の側面がある。しかし、それでも戦争の継続するか講和するかどうかは攻撃国の意思に委ねられ、他国の支援が不可欠であるとする限界の側面があるとする(「専守防衛作戦の可能性と限界」『軍事史学』第52巻第4号所収)。

彼はこの論文において、専守防衛は「自国の領土が荒廃し、国民が直接損害を被ることが必然である」(小川:93)と当たり前ながら重要な指摘をしている。つまり、国民の被害を抑えるためにも、安全保障研究は必須なのである。例えば、日本がとる専守防衛の戦略は、攻撃国に負けやすいかもしれない(野口和彦「何が戦争の勝敗を分ける軍事力を生み出すのか」p.151)。今のウクライナが示唆するように、領土奪還の力が衰えれば、ロシアが占領した領土が2度と帰ってこないかもしれない。

学術会議の諸問題について広めている隠岐やさ香氏は、かつてXで以下の投稿をしている。

「戦争に備えることに頭を使うより、戦後のため、あるいは軍事的緊張を回避する未来のために頭を使うほうがずっと楽しいしやり甲斐もあるのに」

確かに、戦争に備えることよりも回避する方が望ましいし、やり甲斐があるのは事実だろう。しかし、高坂正堯氏が「具体的な平和のための措置をいくつか取りあげ、それらを検討した。それらはすべて不満足なものであり、平和の探求として讃えられるかわりに、大きな但し書きをつけて扱われるべき」(『国際政治』p.Ⅱ)と喝破したように、軍事的緊張を回避する手段にも不満足な要素があるだろう。

そもそも、ウォルト氏が指摘するように、安全保障研究はそうした危機を回避する手段を手助けしてくれる。にも関わらず、学術会議はそれを抑圧している一方で、ウォルト氏が教鞭を取るハーバード大学では、ウォルト氏のような論文内容を抑圧することはない。

最後に、隠岐氏は「このままだと日本のアカデミーは誤解にもとづき改革されたことになってしまう」とポストしていた。残念なことに、私は学術会議が軍拡競争を招く学術論文や、戦争を回避するための外交術に関する学術論文、更には、安全保障研究の危険性を指摘した学術論文が見当たらなかった。ウォルト氏の論文に基けば、学術会議の安全保障研究に関する認識こそ、誤解ではないだろうか。