1 《はじめに》

 

この場に書かせて頂く事は、

2012年より

父船田玉樹の年譜や公に報道された

その、

事実とは異なる部分の記載について、

私が、各機関に訂正を申し出た日々の

レポートです。

 

この場に書かせて頂く事は、

決して、

どなたかを、

責めたてる為ではありません。

 

私という個人の、

力の小ささを思い知り。

2013年から努力するも

何も動かず。何も動かせず。

 

そして、

コロナ禍となった今

この、

世界の一大事の今

 

目の前で

もっと大切な事が、

もっと切実な問題が、

日々、

うず高く積まれてく中。

 

日々、

それを、見つめて過ごす内

もう・・

亡くなって30年にもなる父の

その78年の生涯においての

たった、2〜3行の虚実の訂正など

もう・・

諦めざる終えないのかもしれないと。

 

そのように心する日が、

多くなってまいりました。

 

私も、60代半ばとなりました。

 

 

闇に葬られるならば

せめて、

虚実の訂正に今まで走ってきました

私の数年の道筋を

せめて、残しておきたく。

 

 

この場を作りました。

 

 

御理解下さい。

 

              2021年 2月22日

 

 
 
 
 
 
 
 
 
 

2《感謝》

 

私の父は日本画家として

78年の生涯を終えています。

1991年、私が34歳の2月に

亡くなりました。

 

 

2012年

7月15日〜9月9日まで

「練馬区立美術館」にて。

 

2013年

1月21日〜2月20日まで

「広島県立美術館」にて。

 

「生誕100年 船田玉樹展」を

開催して頂いています。

 

開催に際し、主催して下さった

東京の

〝練馬区立美術館〟〝朝日新聞社〟の皆様。

広島の

〝広島県立美術館〟〝中国新聞社〟の皆様。

その、多大な御尽力には対しては、

感謝の文字しかありません。

 

ありがとうございました。

 

 

 
 
 
 
 
 
 

3《虚実》

 

私は、日本画家船田玉樹の第5子です。

詳細は《家族の系図と認識》という

カテゴリー内に書かせて頂いています。

 

私は、3番目の妻辰子の長女です。

父船田玉樹にとっては、

末娘となる三女でもあります。

 

私の母辰子の子は、弟と2人です。

2000年に弟は養子に出ましたので

本名は船田ではありませんが、

画業もしておりますので

仕事は船田奇岑として活動しております。

 

 

2012年に東京の「練馬区立美術館」にて。

2013年に広島の「広島県立美術館」にて。

「生誕100年 船田玉樹展」が開催されました。

 

 

この展覧会にて、下記の事柄が、

父の画業歴史の中に書かれています。

 

『60歳を過ぎ、クモ膜下出血をおこす。

 その後遺症として、右半身麻痺に陥るも、

 多大な努力の末、奇跡的に麻痺が回復。

 右手で筆を持つことにこだわり、

 懸命なリハビリに取り組み回復。

 そのリハビリ中に、描いた作品も

 数知れない。

 不自由な右半身をリハビリで克服し、

 その後、晩年まで作品を残していった画家』

 

このような事が、

年譜上に記載され、

文字になり広報されています。

 

父が、

クモ膜下出血を起こした事実はあります。

しかし、

それは、軽いものでした。

 

麻痺になった事実は、全く存在しません。

 

克服する為の、懸命なリハビリ等も、

全く、存在しておりません。

 

クモ膜下出血の為の、

後遺症記載部分は、虚実です。

 

 

 

・練馬区立美術館で開催時に行われた

 「生誕100年 船田玉樹展」

 特別鑑賞会御招待状には、

 右半身不自由という文字が書かれていました。

 

 

 

 

 

・練馬区立美術館HP内に書かれている箇所

 

 

 

 

 

 

 

 

・広島県立美術館HP内に書かれている箇所

 

 

 

・生誕100年船田玉樹展公式図録

 「船田玉樹画文集 独座の宴」

 

 

 

 

 

 

 

・広島県立美術館での開催に合わせた

主催中国新聞社の連載記事に

「右半身不随」の文字も書かれています。

 

 

・麻痺の前に描いた自画像、

リハビリ中に描いた自画像と、

アートナビゲーターの方の説明と共に

それは、紹介放映もされています。

 

後ほど説明させて頂きますが、

2012年8月2日放送された

東京メトロポリタンテレビジョンの番組です。

その後、

YouTube上にもアップされています。

 

7分程の船田玉樹の紹介の中で、

一番顕著な具体的な場面です。

 

 

ナビゲーターの方の説明です。

「向かって右は、上京した頃に描いた自画像。

左は、全身麻痺後、リハビリ中に描いた自画像」

このような説明をされています。

この動画は、2015年2月、削除していただいています。

私の記憶では、この左の赤い自画像は、

描いた時期が異なります。

 

 

 

 

 

 

 

・下記はネット上で、

船田玉樹の作品を紹介頂いている

インターネットミュージアムサイトです。

「右半身が不自由に」との文字が残っています。

 

 

 

 

私は、これらを知った時。

社会に対する大変な裏切りではないかと

背筋が寒くなりました。

 

私は、父の亡くなる前は、

実家の船田家とは、普通に親交がありました。

亡くなった後、様々な事が起こり、

私自身が傷つかない手段を選びました。

それは、

船田家との絶縁でした。

 

私は、私の意思で2005年より

船田家との全てを断ち切って、

関西で生活をしていました。

 

その為、

東京と広島で、大規模な展覧会が

開催された2012年前後は、

展覧会開催など、全く知らずにいた次第です。

 

私が知ったのは、東京練馬区立美術館での

展覧会が終わりかけた頃でした。

 

その為、

父船田玉樹が、

右半身不随でリハビリをしていたという

思いがけない年譜の内容を私が知ったのは、

恥ずかしいことに、

東京での展覧会が、まさに

終わろうとしていた頃でした。

 

私は全く、船田家と近づくつもりはなく

関西で生きておりましたが、

上記の父の右半身不随の年譜を知った私は、

2013年〜2014年末まで、

何が起こってこのような事になってしまったのか

責任があると強く思い、

船田家と交流を戻して、努力しました。

 

結果、

 

私が思ってもいなかった方向にいくばかりで、

船田家とは、

共に訂正、再検証は無理だと断念し、

再び、絶縁状態になった次第です。

その後、

私一人で、

父が右半身不随、右半身麻痺は無かったと

訂正、又は再検証して頂けるよう、

出来る限りの事を始めた次第です。

 

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

 

 
 
 
 
 
 

4《私の存在が証拠》

 

父がクモ膜下出血で倒れたのは

1974年12月中旬。

そして入院。

1975年まで、ひと月余りの入院を経て、

2月からは自宅療養に戻る。

 

「退院時には、右半身不随により不自由であり

そのリハビリの為、

限りない努力をしている」

と公にされている同時期にあたる

1974年〜1975年の、

私自身の年表です。

 

 

1974年

 

4月

エリザベート音大入学

自宅通学

 

5月 

 

6月

 

7月

大学生活はじめての夏休みに入る。

 

8月

父に同行2人で東京へ一週間。

上野に宿泊。

毎晩違う父の仕事関係の方に会い、

仕事として食事等をする。

帰宅後、T氏とお見合いをさせられる。

 

9月

父が外泊する事が多くなる。

両親の不仲がエスカレートしてくる。

私は高二の時の大病が原因で

微熱が下がらなく色々な病院を回る。

不眠や集中力低下等に悩み、

大学病院の専門医にも診療をうける。

結果、休学自宅療養となる。

 

10月

1年間の予定で大学休学届け提出。

父のお付き合いしている女性がわかり、

私が個人的に面会する。

父は、それを知り私を叱る。

父と母の不仲が必至になっていく中、

自宅で療養が精神的に無理になり、

福岡県の母方の叔母宅に行かせて貰う。

(10月半ば〜12月3日か4日の期間)

 

11月

福岡にいる間、次男と会い話をする。

 

12月

父は12月初旬、福岡県の母の実家へ。

「離婚したいので妻を引き取ってくれ」と

言いに行った事で、大騒ぎになる。

「血圧が高い様子だった」と、

福岡の母の親族から電話で聞く。

その直後、父が行方不明になった。

自宅に連絡なく帰らない日が続く。

父が電話や伝言なく外泊が続く事は

それまでには無く。

母などと、知人や出入りしていた場所に

端から電話し探す。

    

5日目に居場所がわかる。

電話にて、小料理屋で倒れ、

店の2階で寝込んでいる事が判明。

その場には、お付き合いしていた女性が

看病していると聞き、驚きの中、

母と弟がタクシーで迎えに行く。

私は自宅に残り、母に指示された通り、

かかりつけ医の近藤病院に事情を話し

往診を頼み。

和室にお布団をひき。

ガスストーブをつけ、和室を暖め。

お見合い相手が内科医だった為、

電話をし、倒れている状況を説明し、

〝どんな病気が考えられるか?〟と、

気が動転しながら聞いた。

    

間も無く、

母と弟が父を連れて帰宅して来る。

門の前でタクシーを降りた3人を

確認しています。

父は、弟に肩は借りておりましたけれど

自分の足で歩いて、門からの階段を

上がって和室に横になりました。

かかりつけ医の近藤先生に、

自宅に帰るまでの5日間の症状を

父は、しっかり覚えていて

細かく先生に話しています。

 

〝脳出血の可能性は間違いない〟

との判断から、

「なぜ、すぐ病院に連絡しなかったか?」と

近藤先生に質問されてました。

父は、

「吐くだけ吐いた後は、

静かにするしかないと思い、

ずっと寝ていた。

病院へは行く必要はないと思った」

そう答えていました。

 

お見合い相手のT氏も来られ、

近藤先生とすぐに病院へ運ぶ方が良いと、

2人が廊下で話してた記憶です。

県病院の当時の医院長と父は、

繋がりがあり、県病院に救急で入院。

意識もはっきりしており、

ろれつが回らないなどの

症状も無かったです。

 

広島県立病院入院、

私も別の車で病院へ行く。

入院してすぐ看護師さんからの

聞き取り質問にも、

父は、きちんと答えています。

私に言った言葉

「Fが助けてくれた。

お母さんとは、口は聞きたくない」

でした。

私は「馬鹿な事は言わないで」と、

父に声を上げています。

父は、母に大変な抵抗をしたまま、

入院生活は始まりました。

 

 

1975年

 

1月

父が入院中、

母は病院にこもり、

退院まで2〜3日程しか帰宅せず。

仕事がら社交の幅も広く、

病に倒れ、しばらくの間、

早朝から問い合わせが殺到。

対応に追われる日々でした。

又、

次々とお見舞いに遠方からも来られ、

親族は

入れ替わり自宅へ宿泊した為、

買い出しや、寝具や食事の用意など、

私は実家にて多忙でした。

休学した理由の微熱もあり、

毎日、大変疲れてました。

 

記憶している宿泊者

(母の兄と、すぐ下の妹が共に3泊

千葉から長男2泊

京都から長女1泊

東京から次女1泊

父の従兄弟の子供智恵子3泊)

       

私は毎日ではありませんでしたが、

週に2〜3回は入院先に出向いています。

当初、視力の低下があり、

眼底出血との診断。

画家が目の障害になれば

致命傷と心配し、

私はその時は大学も

辞める覚悟をしています。

病院の廊下で広島市江波に在住の

父の友人が

〝心配せずとも、もしもの時は

僕が授業料は出してやるから〟

と言われ、

泣きそうになったのが記憶に鮮明です。

 

入院10日も経った頃〝吸収した〟

という説明でしたけれど、

視力は回復。

その後は、

順調に退院に向かっています。

両親が離婚の話しになる程、

不仲中の入院でした。

若かった私には、

受け止められない出来事も

ひと月程の間に何度もありました。

精神的に母も壊れていた時期です。

 

2月

2月に入ってすぐに

(母のメモは1月末になっております)

父は広島県立病院を退院。

自宅は門を入ると

数段の階段があるが、

父は、自分自身で歩き、

自分で普通に上がる。

帰宅後は、数日寝たり起きたり。

食事は普通食。

禁酒、コーヒーは飲んでた。

介助の必要はなく、

風邪をひかないように気をつけていた。

 

3月

初旬、私は喉の手術をする。

執刀は山下先生。

これがきっかけで、本当に健康になる。

手術の後

しばらく自宅で寝込む。

私の部屋は、

父のアトリエの横にあり

時々、

父は私の様子を見に来てくれた。

来客もある。

中旬からは、

父はバス停まで歩いて

バスに乗って市内へも出かけている。

心配した覚え。

 

この時期、

父の言動に不自然さを感じ、

母と2人で、

県病院で主治医だった先生に

相談に行く。

「クモ膜下出血など、

脳出血の後遺症は

大きく分けて2パターンある。

ひとつは、身体的運動障害、

もうひとつは、性格精神障害。

玉樹さんは身体的運動障害は

幸運にも無かった。

この様に身体に障害が

出なかった方は、

性格精神障害が起こる事が多く

例えば、涙もろくなったり

怒りっぽくなるなどです。

玉樹さんの言動行動の

病気前との違和感は、

多分、性格精神障害的な

後遺症からきている可能性です。

ですが、少しずつ

それも、

普通の状態になっていく方の方が多く

しばらく付き合う姿勢で

いた方がいいです」

そのように言われた。

    

4月

下旬に運転免許証取得。

父に選んでもらった

スターレットという車に

父を乗せて、

広島市から東広島市の酒造元に

お軸の納品に行った事が初めての遠出。

その日は会食もしています。

心身普通。

日立ファミリーセンター

日本画教室再開。

しばらくは、昼の部だけ復帰し

夜は平田春潮先生が

そのまま代行されてました。

必要な荷物と父を日立ビルの前まで、

私は車で数回運んでいます。

杖をつく訳でもなく、

普通に歩き

普通に仕事しています。

 

5月

74年8月のお見合い相手とは、

私の体調不良と、

父の入院で保留中でしたが、

父も元気になり、

私も健康を取り戻したので、

結婚を前提の申し込みに来られる。

私の両親などと

自宅和室にて、会食。

その後2階アトリエに上がり、

皆で色紙に寄せ書きをする。

別の色紙に

父は山の絵を墨で描き

T氏にプレゼントした。

    

広島市十日市町に、

父の日本画教室を新しく持つ。

毎週月曜日10時〜17時。

会場は30名程の方が

座って絵を描ける広さ。

続き部屋はソファーがあり

数名が飲食可能な場所。

お弟子さん達は、

教室が開いている時間は、

自由にそこで描き、

父の指導を受けるというシステム。

助手であった母と父は、

毎週月曜日には丸一日

教室に出ている。

私は、大きな荷物のある時は、

車を出して教室に送っていた。

教室は2階にありました。

父は最初から

普通に1人で上がり下りをしている。

もちろん、両手も普通でした。

当時の多くのお弟子さんは、

その事を知っています。

 

6月

父は、自宅とは別の部屋を借り、

夜は、完全に自宅(本宅)に帰らない

生活が始まる。

母は、離婚などしないと

ますますエスカレートしていた

不安定な時期。

私の体調は手術後良好となり、

6月半ばに予定より

半年早く大学に復学。

父は別宅マンションには

固定電話はつけていなく。

急用時は私が夜中でも

父の別宅マンションへ車を出し

知らせに行く事が日常になる。

父の新しい部屋は

エレベーターのないビルで、

5階でした。

5月に自分で探したと言ってます。

私は、ゴミ出しとか大変と思い、

大丈夫かと聞くも

「運動になるので、大丈夫だ」と言い、

すでにこの時期、

5階を上り下りしてる。

 

7月

8月

9月

 

10月

広島市本通りにあった

「ギャラリーとみた(トミタ)」で、

船田玉樹展開催

受付手伝う、

遠縁のお姉さんも一緒に受付。

 

11月

12月

 

 

記憶していることは、

この限りではありません。

右半身不随でない証明になりうるような

出来事を中心に書いております。

 

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

5《関係各位の共通意識》

 

父の間違った歴史部分を知った私は、

すぐに、

なぜ、そのような事になったのかと、

経緯を調べ始めました。

 

 

最初にわかったこと。

 

「生誕100年 船田玉樹展」に関わる

全ての情報の窓口は、

私の弟の、

船田奇岑(横山日出海)という事でした。

船田奇岑の名で画業をしています。

 

母と弟夫婦は、それぞれ広島市内にいました。

なぜ、母がそばにいたのに、

父に右半身不随の時期があった、など

父の身の上に、当時、起こっていない事を、

マスコミの方々までにも公表したのか。

全く理解できず、

聞き取りを始めています。

 

 

美術館、学芸員、主催者などへの、

父の情報発信窓口はひとつでした。

全ての情報は、

弟からだったと知りました。

 

 

私は、

船田家(母辰子と弟奇岑)とは、

性格的に交じり合わず、

色々な出来事の末、

2005年〜2013年春まで、

完全に絶縁しておりました。

 

私は練馬区立美術館の開催が終わる頃、

父の展覧会が開催されていた事実を、

東京の友人からの連絡で

はじめて知った次第です。

 

 

関係各位の方々は、

口を揃え言われました。

 

「高齢の奥様は、

 窓口としては無理だと、

 そう、奇岑氏に言われ。

 常識的にも、

 奥様は記憶もあやふやだろうと思った。

 色々な物事を熟考されていられる

 奇岑氏を疑う余地はなく。

 我々は、

 窓口は奇岑さんと納得して、

 聞き取りをしています。

 

 我々は、

 船田玉樹氏についての情報の全て

 船田家代表として、

 船田奇岑(横山日出海)氏を

 全ての窓口として、進めてきてます。

 

 今回の問題は、我々の問題ではなく、

 船田家の親族間の問題であり、

 親族間で解決して頂きたい。

 

 我々には、非はなく、

 奇岑氏を疑う余地もない」

 

 

以上が、

関係各位方々の共通におっしゃる事でした。

 

 

 

 

 
 
 
 
 
 
 
 
 

6《私も親族》

 

親族間の問題を、

解決できなかった事が

この度の虚実の〝制止〟

又〝再検証〟を

関係各位の方々にして頂けなかった、

一番大きな要因と

思っております。

 

私は、

〝虚実の記載〟部分を知った直後から、

出来る限りの行動をし、

再検証の聞き取りを

お願いしております。

 

関係各位の幾人かの方は

言われました。

 

「お父さんが、玉樹さんが、

 リハビリしなくても良かった程

 病気が軽いものだったという証拠を

 出してもらえないか」

 

 

私は当時、

大学は休学していました。

 

高校2年の3学期にした大病の後

すぐ受験勉強になり、

無理をしたことが原因で

大学入学後の秋、

それが原因で

再度微熱が下がらなくなり、

休学を決めています。

 

休学予定は

10月から1年でしたけれど、

1975年、父が退院後まもなく

私は喉の手術をした事が

良い結果になり、

6月末から復学しています。

 

1974年10月から

1975年6月までの父の様子は、

母と同様に知っています。

弟は高校1年生でした。

 

しかし、

関係各位の方々は、

 

弟と、母の聞き取りは信じ。

私からは、聞き取りは必要ないと、

そのような事です。

 

幾度も

私からの聞き取りを、

お願いしても

してくださいませんでした。

 

姉達の話も、

奇岑さんから聞いてると、

答えられるだけでした。

 

「あなたの話は、

まるで「証拠にはならない」

奇岑さんと、お母さんから聞いています。

あなたの事は聞く必要はない。

村下さんとの時も

大変だったそうですが」

 

そう、言われる始末です。

 

最終的には、

関係者の方々から言われたことは、

 

「これは親族間の問題です。

 船田家で、

 答えを一つにして頂きたい」

 

でした。

 

それに応じ、

親族間である、

特に船田家代表の弟と母とに対し、

私は、

「なぜ虚実を作って話をしたのか」と

説明を求めました。

 

しかし、

努力すればするほど、

母と弟との決裂は、

より一層複雑化され。

私の人間性も、

より一層、疑われる事態にされ。

 

結果、

 

制止させるどころか、

暴走になり。

 

私の人間性を

外部の方々に疑わさせる

言動が始まりました。

 

最初は、

私の友人・知人などへの

電話でした。

 

それは、

ブログやYouTubeなどへも

エスカレートしております。

 

再調査と訂正も

拒否されたまま、

今日の日に至ってしまっています。

 

展覧会自体を、

全否定しているわけではありません。

 

父船田玉樹の

クモ膜下出血の後遺症とされる、

半身不随、半身麻痺、

右手のリハビリに励んだ日々。

上記は、

全く無かったという事。

その再調査をして頂きたい

それだけです。

 

私は、努力は致しましたが

関係各位の方々からは、

いまだ、

何も聞いて頂けてはおりません。

 

 

 

 
 
 
 
 
 
 
 
 

7《家族の系図と認識》

 

父がクモ膜下出血で倒れた

1974年12月末〜当時の兄弟姉妹状況

 

(最初の妻の子供)

長女39歳 京都在住 公務員

      夫・子供3人・夫の両親と同居

次女37歳 東京在住 布地デザイナー勤務

      夫・子供1人

 

(2番目の妻の子供)

長男29歳 千葉県在住 独身 研究所勤務

次男27歳 福岡県在住 独身 自営

 

(3番目の妻の子供)

長女19歳 広島在住 独身 大学生休学自宅療養中

三男16歳 広島在住 独身 高校一年

 

 

・私との関係

長女次女は、父に会いに

広島の家に自由に来ていました。

私の母との関係は、良くわかりません。

 

子供の頃から、姉たちとは親交があり、

私は可愛がってもらっていたと思ってます。

私も特別に嫌な感情は無く育っています。

 

特に次女とは、

学生時代に、東京の姉の自宅に泊まったり

親しくさせてもらっています。

 

2人の姉は、

父がクモ膜下出血で倒れた時期は、

子育てと仕事に追われており、

父が倒れた1975年1月に、

それぞれ一度ずつ

お見舞いに広島に来ています。

危篤でもなく、

病後の心配はそれほどせず、

自分達の自宅に帰った記憶だと

私は話を聞きました。

 

その後、

姉達が父と出会ったのは、

1〜2年後だったそうです。

その時の父は、

リハビリに励むなどの話もなく

他の人からも、

一度も聞いた事がないと、

言っていました。

 

最近では、

最後に姉妹三人で会ったのは、

2016年6月4日。

京都在住の長女宅に、

次女が遊びに来てるからと連絡があり。

三人で午後から夕食まで共にし、

父の件などを聞いています。

 

クモ膜下出血の後遺症については、

2人の姉は、この日にも

「生誕100年 船田玉樹展」展覧会場で

初めて知ったという見解でした。

 

 

 

長男と次男について。

父がクモ膜下出血で入院時、

長男は、千葉にある勤め先の

研究所を離れられず、

12月の入院直後には広島に帰れず。

1月のお正月休みに帰宅し、

父の病院へお見舞いに行っています。

 

病院で会った時は、「病人という印象」と

兄独特の言い方をしておりました。

その後、

広島に帰ったのは、

1976年お正月、

一年後と言っております。


 

2012年に

練馬の展覧会開催時に東京で知り、

その直後、兄から連絡があり、

長い話になるからと。

わざわざ、関西に来てくれ。

新大阪駅で

多忙で、日帰りしなくてはいけない兄と

4時間程会った時、

兄はこのように話しています。

 

「東京付近で個展などを開催した時に

父と会ったが、

父が半身不自由だった事など

全く聞いてない、

リハビリも見ていない。

仮にも長男として、

本当にそんな事があったのか

何も当時の事を知らなかったので、

逆に教えてほしい」

 

私は、休学中の話はしました。

 

 

 

次男は、

父が倒れる前年暮に、

一度だけ私は話をしています。

その時、父と意見が違うので、

当分広島には帰りたくないと聞きます。

 

しばらくして、父が倒れた時

私は次男の仕事場に電話するも、

帰らないと言われて、

広島には来ていません。

 

時がたち、

父が亡くなって一年の命日、

1992年の2月。

数年ぶりに広島に帰った次男と数人で

自宅で御膳を囲み父を偲ぶ会をしました。

次男は、その時、母辰子にはっきり

言われたそうです。

「お父さんが亡くなったので、

 あなたとは、もう関係が無い。

 もう、出入りしないでもらいたい」

 

次男は、

「わかりました」と

言うしかなかったと

4年前に出会った時に

当時の事を教えてもらいました。

聞いた私は、かなりショックでした。

 

福岡在住の次男には、

東京在住の

長男から

展覧会の知らせはあったものの、

広島からは

何の知らせもなかったそうです。

 

 

父船田玉樹は、

晩年15年間に渡り、

Fという女性と共に別宅を持ち、

人生を歩いております。

 

父の15年暮らしていた

マンションビルを片付けたのは

32歳の私と29歳の弟でした。

 

私は、15年間、

ドアの前までは何度も行きましたが

一度も、

室内には入ってませんでした。

入っていけるような神経など

もちあわせてはいませんでした。

 

父が、亡くなる二年前、

人工透析を始め、

全てをクリアにするという

こととなり

その部屋を、片付けた次第です。

 

足を踏み入れて、

私は、本当に驚きました。

そこは、生活感ゼロの部屋でした。

全ての部屋がアトリエとして

使われていたのでした。

大作も数枚、描きかけでおり、

油絵の具での仕事部屋も

作品で溢れておりました。

 

私は、15年もの間、

父の別宅は、

わかりやすく表現すると

「愛の巣」のようなものと

想像して過ごし、

育っていました。

部屋に一歩踏み入れ、

全ての部屋を見た時、

「お父さんは、ここでもこんなに

仕事をしていたんだ」

と、絶句しました。

 

もちろん、2人の私物はありましたが

ささやかなものでした。

 

 

 

 

 

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

8《主催練馬区立美術館の対応》

 

2015年3月1日付 で、

私個人より、練馬区立美術館宛に、

経緯の説明と事実確認、

再検証をお願いするお手紙を送付。

 

♢手紙送付 2015年3月1日付 ♢

 

「生誕100年 船田玉樹展」の主催者である

練馬区立美術館へは、

最初2015年3月1日付けで、

お便りを差し上げました。

私の私信です。

弁護士にはお願いしておりません。

まず、自分の力でと、そう思っての事でした。

以下、私が「練馬区立美術館様宛」に

書かせて頂いた全文です。

 

 

前略

 

突然のお手紙失礼いたします。

私優子は日本画家船田玉樹の第5子にあたります。

2012年に開催して頂きました

「生誕100年 船田玉樹展」におきましては、

皆様方には、大変御尽力賜りまして、

本当にありがとうございました。

心より感謝申し上げます。

 

最後の妻である辰子の長女の私の立場からも、

御礼が大変遅くなりましたこと、

お詫び申し上げます。

 

東京と広島とでの、

父の展覧会について、

私は、どちらからも、

母からも、弟からも、

全く連絡はございませんでした。

東京に住んでいます私の知人が

「練馬へ行かせて頂き絵をみました等・・」

という電話から、

私は初めて父の展覧会が

開催されていることを知りました。

同時期に

横浜の兄(長男)から連絡が入り、

その週に兄が私の住んでおります

関西に来て会い、

色々な事を聞かされ、

全容を知る事となりました。

 

さまざまな多くの事実が浮かび上がり、

私は大変混乱して過ごしております。

すでに、ご承知おきかとも存じますが

「船田玉樹のクモ膜下出血の際に

半身不随になった事、

その為麻痺が生じ、

その後リハビリに努力した事」

以上の事実は存在しておりません。

 

クモ膜下出血で、

広島県立病院へ入院していた

事実はございますが、

とても軽いものでした。

これは、二人の姉・二人の兄も

同じ認識でおります。

私は当時19才で

エリザベート音楽大学(広島市)一年生でした。

大学に入学しましたが

微熱が下がらない病気になり、

1974年でしたが10月10日付けで

大学に休学届けを出しています。

体調の件で父にも心配をかけ、

相談し、休学届けを出した日が

当時の「体育の日」だったので、

良く記憶しております。

 

それからは、

日々、安佐南区山本の、

今ある実家で毎日過ごしております。

休学をして2ヶ月後(12月末)に、

父がクモ膜下出血で県病院に入院しました。

 

私は、大学に行っておりませんでしたので、

体調管理をしながら、

毎日両親を見ておりました。

1月の成人式には、

父はまだ入院しておりましたが、

私は式に出席し、

ワンピース姿ではありましたが

式場から父の病院に直行して、

成人式の報告をしました。

父との会話も覚えています。

「自分が病気をして入院してしまったので、

着物を着せられなくて悪いなあ」と、

私の洋服姿を見て言ってました。

 

それから間もなく、

1月下旬又は2月上旬でしたか、

父親の足でしっかり退院しています。

私の体調も良好になり、

毎日実家の手伝いばかりでは・・と、

運転免許を父のすすめでもあり

3月に免許を取りはじめ。

父の選んでくれた“スターレット” という

自動車を買ってもらい、

4月下旬からは、父の外まわりの仕事や、

当時、

広島市紙屋町での

“日立ファミリーセンター

日本画教室” 講師も 

(病気の時代稽古をお願いしていたのは平田春潮先生、

  入院してた12月~3月下旬)

私に行き帰りに「乗せて行ってくれ」と

私が父を乗せ、

仕事場のビル前まで行ったりしていました。

5月には、

十日市町という場所に

父の教室を新しく作り、

毎週1回、ビルの2階に借りた自身の教室に

きちんと通っておりました。

6月に私が復学するまで、

日本画教室の必要な道具類(絵筆から額、紙まで)を

スターレットで運んでおりました。

 

目が見えなかった事実、

半身不随になった事実は

全くなかったということです。

 

その後、

復学後も、

不仲だった母辰子の代役で父に同行し、

又、運転手をしております。

写真もございます。

 

弟は、当時広島市の舟入高校1年。

2学期に父が入院、3学期に退院しています。

なぜ、多くの方々に対して、

この度の船田玉樹の年譜中に、

半身不随・リハビリの文字が乱れ飛んだのか

理解出来ずにいます。

 

事実確認の再調査と訂正をお願いしたく、

お手紙させて頂きました。

突然の、

私からの一方的なご報告とお願いに対し

大変恐縮しておりますが、

どうぞ心痛ご理解頂き訂正して頂きたく、

切にお願い申し上げます。

 

3月になります。

春ももうすぐでしょうか、ご多忙の日々と存じます。

御自愛下さいませ。

 

                  かしこ

 

2015年3月1日

 

    練馬区立美術館様

 

 

 

 

 

 

お返事は3ヶ月以上もたった、

6月18日でした。

 

練馬区立美術館様からのお返事は、

1枚のペーパーでした。

 

返信内容です。

①展示・図録への記載内容は聞き取り内容と齟齬がない。

②「証言の食い違い」があり、検証にも限界がある。

確たる事実が検証された場合に、可能な範囲で対応する。

 

私への聞き取り要請の言葉は、

全くありませんでした。

事実上、検証する考えはない。

との返信でした。

 

 

それを受けて、

2015年7月6日、練馬区地域文化部宛に、

私が直接電話を致しました。

 

強い口調とはなりましたけれども、

必死で再検証のお願いを致しました。

 

その結果、

2015年7月7日に、

練馬区 地域文化部 文化生涯学習課の方から、

下記の趣旨の返信が届きました。

 

 

今回頂いた手紙を契機として、

証言の羅列を時系列にしたがって作成し、

事実の究明に必要なことは、

できる範囲内で行う。

できる範囲で検証を進め、

その上で公立美術館として、

対応していく所存である。

 

 

 

以上のような内容を頂き、

少し胸をなでおろしておりました。

しかしながら、2021年1月現在に至りましても、

何一つ、ご連絡を頂いておりません。

 

 

 

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

9《主催朝日新聞社の対応》

 

朝日新聞東京本社文芸部(主催などの担当部署)宛に、

2015年3月1日付で1回目、

同年4月14日付で再度、計2回にわたり、

経緯の説明と事実確認、再検証をお願いする

私個人のお手紙を送付。

 

 

 

♢1回目の手紙送付 2015年3月1日付 ♢

 

 以下、私の

朝日新聞社宛に送付した手紙の概要です。

  

 

 前略

突然のお手紙失礼いたします。

私は、2012年に

練馬区立美術館で開催された

「生誕百年船田玉樹展」の

日本画家船田玉樹の第5子にあたります。

2012年に練馬区立美術館と

朝日新聞社の主催でされております。

この展覧会を主催して頂いた

御礼も出来ずに

このような時が過ぎての

感謝の言葉となりました事、

心からお詫び申し上げます。

 

「生誕百年船田玉樹展」におきましては、

皆様に大変御尽力賜りまして、

本当にありがとうございました。

 

実は、

東京広島と二か所で開催された

父の展覧会について、

私はどなたからも、

母からも弟からも

全く連絡はございませんでした。

 

私の東京に住んでおります知人から

「練馬の展覧会に行かせてもらった」との電話で、

私は、はじめて父の展覧会が

開催されていることを知りました。

同時期に、

横浜に住んでおります兄(長男)から連絡が入り、

その週に兄と会い、

色々な事を聞かされ、

全容を知ることとなりました。

 

様々な多くの事実が浮かび上がり、

私は大変混乱して過ごしております。

    

本日、お手紙を差し上げましたのは、

「生誕百年船田玉樹展」において、

年譜で出されている箇所に、

事実とは異なる記載があり、

訂正と事実確認の再調査をお願いしたく

お手紙させて頂きました。

 

すでに御承知おきかとも存じますが、

「船田玉樹のくも膜下出血の際に、

半身不随になった事、

そのため、麻痺が生じ、

その後リハビリに努力した事」

以上の事実は、

全く存在しておりません。

 

1974年12月くも膜下出血で

広島県立病院へ入院していた

事実はございますが

とても軽いものでした。

船田玉樹を父とする

異母兄弟(姉二人、兄二人)も

同じ認識でおります。

私は最後の妻の長女です。

弟は船田奇岑として仕事をしております。

 

父船田玉樹がくも膜下出血で入院したのは

1974年12月です。

当時、私は体調不良から

同年10月に通っていた大学に休学届を出し、

自宅(今の実家)で毎日過ごしていました。

私は日々両親を見て過ごしていました。

父が入院したとき、私は休学中でした。

入院期間は1か月ほど。

翌年2月上旬には自分できちんと歩いて

退院しております。

 

当時、広島市紙屋町にあった

日立ファミリーセンター日本画教室の講師にも

4月下旬には元気に通っておりました。

入院中は、平田春潮先生が

3カ月ほど代わりに

講師をして下さっています。

 

5月には、

十日市町という

広島市内のビル2階スペースを借り、

新しく日本画の教室も始めています。

私は休学中でしたので、

両親の日常を共にしており、

父と不仲であった母の代行でよく

仕事に同行しております。

 

「懸命なリハビリで

奇跡的な右手の麻痺の回復」など

多くの文字がネット上に

乱れ飛んでおります。

船田玉樹の年譜にも

リハビリの文字があります。

なぜこのような事実とは異なる事が、

文字となってしまっているのでしょうか。

 

訂正と事実確認の再調査をお願いしたく

お手紙をさせて頂きました。

 

突然の一方的なご報告、

又、お願いに対し、

大変恐縮ではございますが

どうぞ心痛ご理解頂き、

訂正して頂きたく、

主催者をされた朝日新聞の皆様に

切にお願い申し上げたく

お手紙させて頂きました。

 

御多忙の日々とは存じますが、

宜しくお願い申し上げます。

 

                  

 

            2015年3月1日

                      

 

朝日新聞東京本社文芸部 

主催担当者様

 

 

 

        

 

上記1回目のお手紙に、

返信が来ませんでした。

 

 

♢2015年

   4月14日付で再度お手紙を送付 ♢

 

以下、

私の朝日新聞社宛に送付した2回目の手紙概要です。

 

 

前略

関西の桜も葉桜に日々変わり、

五月を思わせる今日この頃となりました。

 

お手紙を差し上げておりましたが、

一カ月を過ぎ、

御返事を頂けなく心配しております。

 

    (中略)

 

今一度、

お手紙させて頂くこととしました。

 

私が書かせて頂いております内容です。

2012年、

練馬区立美術館にて

開催して頂いております

「生誕百年船田玉樹展」の船田玉樹の

第5子にあたり、

最後の妻辰子の長女に私はあたります。

 

この展覧会は練馬区立美術館と

朝日新聞社が主催されております。

三月一日付のお手紙で

詳しく書かせて頂いておりますが、

 

父船田玉樹の年譜の一部において

「生誕百年船田玉樹展」で

練馬区立美術館が出されておられる

この事実とは異なる記載について

事実確認の、

再調査と訂正をお願いしたく、

お手紙をさせて頂いております。

 

すでに御承知おきかとも存じますが、

「船田玉樹のくも膜下出血の際に、

半身不随になった事、

そのため、

麻痺が生じ、

その後リハビリに努力した事、

又、

リハビリ中に描いた作品が多く残っている」

 

以上の事実は、

全く存在しておりません。

 

なかったという事です。

 

なぜ、

このような事実とは異なることが

文字となり多くの方々の目に止まることと

なっているのでしょうか。

 

主催されております

朝日新聞社の方々に

再度、

事実確認の再調査と訂正をお願いしたく

お手紙させていただきました。

 

練馬区立美術館様にも3月1日付で

その内容を差し上げておりますが、

お返事がございません。

 

残念です。

 

御多忙とは承知しておりますが、

どうぞよろしくお願い申し上げます。

 

 

            2015年4月14日

                      

 

朝日新聞東京本社文芸部 

主催担当者様

 

    

 

 

 

♢ 私が出した2度の手紙に対し

 2015年4月16日付で

 朝日新聞社の開催当時の担当者から

 返信を頂きました ♢

 

以下、開催当時の担当者からの返信概要。

 

1.ご指摘の件については広島県立美術館と練馬区立美術館に任せている。

 

 

2.両館の学芸員2人が

船田奇岑様に話を伺い、年譜にまとめたと聞いている。

 

 

3.奇岑様は著作権など、船田家の窓口として

協力して頂いている。

  

 

4.優子様と奇岑様の認識に違いがあるようだが、

その事を判断する立場に私共はない。

 

5.将来、船田玉樹展を開催する際には、

あらためてお話を伺うことはあるかもしれないが

現在のところ、事実関係を調査する予定はない。

 

以上が、お手紙の内容でした。

 

それを受け、私は納得がいかず、

返信元である朝日新聞社企画事業本部に

電話をさせて頂き、

その旨を伝えました。

当時の企画担当者は、

既に転勤しており

東京本社にはおられない事を伝えられました。

よって、

実際に関わられた方とは

お話もさせて頂けず、

前任者の代わりになった方と

話をせざるを得ませんでした。

 

関西と東京とで、2度ほどの電話で

当時の事情説明と

私の申し出をお願いしましたが、

なかなか伝わらず、

 

結果、

 

朝日新聞東京本社から、

企画事業本部長補佐と広報部主任のお二人が

事情説明しに行きますと

おっしゃってくださり、

2015年6月22日

(最初のお手紙を出してから約4ヶ月後)に

兵庫県芦屋市にて話をさせて頂きました。

 

東京から説明に来られたお二人と、

私と子供の計5名。

2015年6月22日の

13:00〜19:00まで。

約6時間にわたり、

朝日新聞社側の説明を受け、

話し合いが行われました。

 

 

・主催者である朝日新聞社に対する

 私達3人からの申し出は

 以下でした。

 

〈申し出概要〉

 

船田玉樹がくも膜下出血となり、

半身不随、右手が不自由になり、

懸命なリハビリの結果、

右手で多くの作品を再び生み出した

という事実はなく、

誤った歴史が周知されている。

                        

特別鑑賞会招待状含む

紙媒体、図録、会場展示等における

上記のくも膜下出血からリハビリの下りの

内容は誤りであると

認識している。

主催者である朝日新聞社には、

早急に事実確認の再調査をして頂き、

訂正すべき箇所は

速やかに訂正して頂きたい。

 

 

・以上に対する、

 当日の朝日新聞社の事情説明と

 申し出の回答は以下。

 

〈朝日新聞社の事情説明概要〉

 

「生誕100年 船田玉樹展」は、

東京と広島で開催されており、

東京展においては、

練馬区立美術館と朝日新聞社が

主催者となっている。

 

主催者という仕事を受け、

また、

主催者が複数の場合、

主催者同士の〝取決め〟を

行うのが慣例である。

 

〝取決め〟とは、

各々の役割や責任を振り分け、

各主催者は決められた役割を

必ず守る。

この契約を取り交わす約束の事である。

 

 

「生誕100年 船田玉樹展」における、

練馬区立美術館と朝日新聞社との

取決めは次の通り。

 

・練馬区立美術館

展覧会の内容、展示内容、図録内容に関する責任。

これらに対する指摘等があれば、

主催者同士の取決めによって、

全て練馬区立美術館の責任である。

 

・朝日新聞社

展覧会に関する

印刷物に記載する

「主催  朝日新聞社」という社名使用許可のみが

朝日新聞社の主催者としての責任である。

(デジタル広報含む)

 

以上が、この度の主催者の取決めであった。

 

この取決めは、

各々に与えられた役割のみ

責任を持つものであり、

他の主催者の役割には

いかなる事があっても、

踏み込み、意見を述べる事などはできない。

それは、各々の責任分野がはっきりしている為である。

 

それ故、今回の申し出は、

練馬区立美術館の役割であり

朝日新聞社には、対応する責任は一切ない。

 

 

上記の理由で、

朝日新聞社の役割外の責任分野であるため、

主催者ではあるが、対応する立場にはない。

 

 

特別鑑賞会招待状の文面に、

 

〝一時くも膜下出血のため右半身が

 不自由になりましたが、その後見事に復活〟

 等の記載があり、

 

この招待状の差出人が

「練馬区立美術館/朝日新聞社」と

印刷、発送されていることについては、

社名の記載許可を出した事に過ぎず、

招待状の文面内容に関しての責任は、

朝日新聞社に全くない。

 

練馬区立美術館ホームページ内の

「生誕100年船田玉樹

    ―異端にして正統、孤高の画人生―展」に

以下記載されている文言についても、

一切の責任は朝日新聞社には発生しない。

 

以下2点は、ホームページ内に記載されている

船田玉樹の紹介文抜粋です。

 

① 〜さらに驚くのは、60歳を過ぎてから、

クモ膜下出血に倒れ右半身が不自由となりながらも、

右手で筆を持つことにこだわり、

油彩による自画像を描く習練からやり直し、

やがて大画面に樹木の枝を繊細な筆致で捉えた作品を

描くまでになったことです〜

 

② 〜1974年 この頃、

クモ膜下出血のため右半身が不自由となるも、

右手で筆を握り描き続ける〜

 

そのため、申し出をされている

事実確認や再調査を、朝日新聞社としては

実施することはできない。

 

朝日新聞社側から、

練馬区立美術館に対し、

指摘・申し入れなどの相談や働きかけ、

協力を要請して

両者で再調査にあたるという動きは、

考えられないことであり、

あってはならないことである。

主催者としてできる事があるとすれば、

見守る事。

 

朝日新聞社としては、

このような取決めの存在は、

主催者にとって守秘義務に近いもの。

 

申し伝えることは異例に近い事である。

そのため、主催者間で取り交した、

取決めに関する正式文書の

公表等はできない。

 

 

 

♢以上のような説明後に行った質疑応答概要♢

 

 

私達からの質問

Q1.

朝日新聞社の

新社長に就任した渡辺雅隆氏が

昨年(2014年)12月に発言された公約に

 

「どんな小さな記事であっても、

その記事に誤りがあれば、

なぜそのような間違いが発生したのか、

ということも含めて

敏速に調査し、速やかに訂正し、読者の方に伝える」

 

以上の言葉がありました。

今回の見解説明は、

朝日新聞社のあるべき方向性とは

違うのではないでしょうか?

 

 

朝日新聞社側の返答

A1.

あなた方は勘違いしておられる。

まず、

渡辺新社長が述べていることは、

編集部の部署に起こった問題のみに

適用されるものである。

この度の件は、

企画事業本部や広報部で発生したものであり、

編集部ではない。

    

朝日新聞に対するクレーム等は、

朝日新聞編集部が文字にした

記事に対するものに限り、

即対応するという意味である。

この度は、

展覧会の広報はしているが、

実際そのような誤った記事を

自ら発信していない。

    

HP等の発信は練馬区立美術館であり、

そのため、

再調査も訂正記事も出す必要はない。

あくまでも、

編集局の記事に対する対応の仕方を

新社長は述べているのであって、

誤解のないようにお願いしたい。

 

 

 

私達からの質問

Q2.

朝日新聞社は報道機関です。

事実か事実でないかという問題には、

どのような部署でも

きちんと目を向けるべきではないでしょうか?

 

 

朝日新聞社側の返答

A2.

私共の会社は、色々な部署があり

我々は、

企画事業本部と広報部です。

報道には携わっていない部署です。

 

 

 

私達からの質問

Q3.

企画事業本部であっても

広報部であっても、

新聞社という組織の

一員であることには変わりないのでは

ないでしょうか。

新聞社として真実を追い求める

責任があるのではないのですか。

今回の事実とは異なる問題に、

報道機関の一つである新聞社が

関わっていることは事実です。

それが、部署が違うというだけで

自分たちは関係ないので、

何も動けないということですか。

 

 

朝日新聞社側の返答

A3.

事実とは異なる可能性はもちろんあるが、

これは、内容の食い違い、

相反する二つの意見があることからきている。

このような場合、

調査は大変難しく

追求しにくいものである。

また主催者という立場上、

主催者の取決めがあるため、

再調査はできない。

私共は、主催者という意味のご説明をしに

こちらに来た次第です。

 

 

 

私達からの質問

Q4.

おっしゃることは頭では理解できますが、

大変悩み困っている一市民として、

報道機関である朝日新聞社に

再調査の依頼や、

練馬区立美術館に対する助言等を

前例がなくとも、お願いするということは

できないのでしょうか。

 

 

朝日新聞社側の返答

A4.

主催者側ですので、できません。

改めて申しますが、

編集部と、

企画事業本部及び広報部は

同じ朝日新聞社というくくりではありますが

全く違う部署ということを

まずご理解ください。

主催者という意味合いを、

誤解されていると

お電話で強く思いましたので、

主催者のご説明に来た次第です。

 

 

 

6時間にわたる、

長時間の聞き取り、

また、

私達の思いを受け止めて頂く努力の間に、

様々な質疑応答と説明がありました。

 

私達は、

小さな事ではありますが

事実とは異なる偽りの歴史が、

文字に残り

また、

多くの方々の脳裏に

残ってしまう事は

あってはならないと

強く思っていた次第です。

 

 

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

10《当時の練馬区立美術館学芸員のN氏の対応》

 

「生誕100年 船田玉樹展」開催の折に、

練馬区立美術館の学芸員でいらしたN氏には

3回程、転勤先の美術館などに

真面目に電話をさせて頂き、

連絡をとる努力をしました。

 

残念な事に、

全く電話には出て頂けず、

伝言をきちんと受付の方に

お願いするのですが

すべて無視をされてしまい、

今に至っております。

 

私の申し入れについては、ご存知と

関係者の方より聞いております。

残念なことに、一度もお話をさせて頂いておりません。