9《主催朝日新聞社の対応》
朝日新聞東京本社文芸部(主催などの担当部署)宛に、
2015年3月1日付で1回目、
同年4月14日付で再度、計2回にわたり、
経緯の説明と事実確認、再検証をお願いする
私個人のお手紙を送付。
♢1回目の手紙送付 2015年3月1日付 ♢
以下、私の
朝日新聞社宛に送付した手紙の概要です。
前略
突然のお手紙失礼いたします。
私は、2012年に
練馬区立美術館で開催された
「生誕百年船田玉樹展」の
日本画家船田玉樹の第5子にあたります。
2012年に練馬区立美術館と
朝日新聞社の主催でされております。
この展覧会を主催して頂いた
御礼も出来ずに
このような時が過ぎての
感謝の言葉となりました事、
心からお詫び申し上げます。
「生誕百年船田玉樹展」におきましては、
皆様に大変御尽力賜りまして、
本当にありがとうございました。
実は、
東京広島と二か所で開催された
父の展覧会について、
私はどなたからも、
母からも弟からも
全く連絡はございませんでした。
私の東京に住んでおります知人から
「練馬の展覧会に行かせてもらった」との電話で、
私は、はじめて父の展覧会が
開催されていることを知りました。
同時期に、
横浜に住んでおります兄(長男)から連絡が入り、
その週に兄と会い、
色々な事を聞かされ、
全容を知ることとなりました。
様々な多くの事実が浮かび上がり、
私は大変混乱して過ごしております。
本日、お手紙を差し上げましたのは、
「生誕百年船田玉樹展」において、
年譜で出されている箇所に、
事実とは異なる記載があり、
訂正と事実確認の再調査をお願いしたく
お手紙させて頂きました。
すでに御承知おきかとも存じますが、
「船田玉樹のくも膜下出血の際に、
半身不随になった事、
そのため、麻痺が生じ、
その後リハビリに努力した事」
以上の事実は、
全く存在しておりません。
1974年12月くも膜下出血で
広島県立病院へ入院していた
事実はございますが
とても軽いものでした。
船田玉樹を父とする
異母兄弟(姉二人、兄二人)も
同じ認識でおります。
私は最後の妻の長女です。
弟は船田奇岑として仕事をしております。
父船田玉樹がくも膜下出血で入院したのは
1974年12月です。
当時、私は体調不良から
同年10月に通っていた大学に休学届を出し、
自宅(今の実家)で毎日過ごしていました。
私は日々両親を見て過ごしていました。
父が入院したとき、私は休学中でした。
入院期間は1か月ほど。
翌年2月上旬には自分できちんと歩いて
退院しております。
当時、広島市紙屋町にあった
日立ファミリーセンター日本画教室の講師にも
4月下旬には元気に通っておりました。
入院中は、平田春潮先生が
3カ月ほど代わりに
講師をして下さっています。
5月には、
十日市町という
広島市内のビル2階スペースを借り、
新しく日本画の教室も始めています。
私は休学中でしたので、
両親の日常を共にしており、
父と不仲であった母の代行でよく
仕事に同行しております。
「懸命なリハビリで
奇跡的な右手の麻痺の回復」など
多くの文字がネット上に
乱れ飛んでおります。
船田玉樹の年譜にも
リハビリの文字があります。
なぜこのような事実とは異なる事が、
文字となってしまっているのでしょうか。
訂正と事実確認の再調査をお願いしたく
お手紙をさせて頂きました。
突然の一方的なご報告、
又、お願いに対し、
大変恐縮ではございますが
どうぞ心痛ご理解頂き、
訂正して頂きたく、
主催者をされた朝日新聞の皆様に
切にお願い申し上げたく
お手紙させて頂きました。
御多忙の日々とは存じますが、
宜しくお願い申し上げます。
2015年3月1日
朝日新聞東京本社文芸部
主催担当者様
上記1回目のお手紙に、
返信が来ませんでした。
♢2015年
4月14日付で再度お手紙を送付 ♢
以下、
私の朝日新聞社宛に送付した2回目の手紙概要です。
前略
関西の桜も葉桜に日々変わり、
五月を思わせる今日この頃となりました。
お手紙を差し上げておりましたが、
一カ月を過ぎ、
御返事を頂けなく心配しております。
(中略)
今一度、
お手紙させて頂くこととしました。
私が書かせて頂いております内容です。
2012年、
練馬区立美術館にて
開催して頂いております
「生誕百年船田玉樹展」の船田玉樹の
第5子にあたり、
最後の妻辰子の長女に私はあたります。
この展覧会は練馬区立美術館と
朝日新聞社が主催されております。
三月一日付のお手紙で
詳しく書かせて頂いておりますが、
父船田玉樹の年譜の一部において
「生誕百年船田玉樹展」で
練馬区立美術館が出されておられる
この事実とは異なる記載について
事実確認の、
再調査と訂正をお願いしたく、
お手紙をさせて頂いております。
すでに御承知おきかとも存じますが、
「船田玉樹のくも膜下出血の際に、
半身不随になった事、
そのため、
麻痺が生じ、
その後リハビリに努力した事、
又、
リハビリ中に描いた作品が多く残っている」
以上の事実は、
全く存在しておりません。
なかったという事です。
なぜ、
このような事実とは異なることが
文字となり多くの方々の目に止まることと
なっているのでしょうか。
主催されております
朝日新聞社の方々に
再度、
事実確認の再調査と訂正をお願いしたく
お手紙させていただきました。
練馬区立美術館様にも3月1日付で
その内容を差し上げておりますが、
お返事がございません。
残念です。
御多忙とは承知しておりますが、
どうぞよろしくお願い申し上げます。
2015年4月14日
朝日新聞東京本社文芸部
主催担当者様
♢ 私が出した2度の手紙に対し
2015年4月16日付で
朝日新聞社の開催当時の担当者から
返信を頂きました ♢
以下、開催当時の担当者からの返信概要。
1.ご指摘の件については広島県立美術館と練馬区立美術館に任せている。
2.両館の学芸員2人が
船田奇岑様に話を伺い、年譜にまとめたと聞いている。
3.奇岑様は著作権など、船田家の窓口として
協力して頂いている。
4.優子様と奇岑様の認識に違いがあるようだが、
その事を判断する立場に私共はない。
5.将来、船田玉樹展を開催する際には、
あらためてお話を伺うことはあるかもしれないが
現在のところ、事実関係を調査する予定はない。
以上が、お手紙の内容でした。
それを受け、私は納得がいかず、
返信元である朝日新聞社企画事業本部に
電話をさせて頂き、
その旨を伝えました。
当時の企画担当者は、
既に転勤しており
東京本社にはおられない事を伝えられました。
よって、
実際に関わられた方とは
お話もさせて頂けず、
前任者の代わりになった方と
話をせざるを得ませんでした。
関西と東京とで、2度ほどの電話で
当時の事情説明と
私の申し出をお願いしましたが、
なかなか伝わらず、
結果、
朝日新聞東京本社から、
企画事業本部長補佐と広報部主任のお二人が
事情説明しに行きますと
おっしゃってくださり、
2015年6月22日
(最初のお手紙を出してから約4ヶ月後)に
兵庫県芦屋市にて話をさせて頂きました。
東京から説明に来られたお二人と、
私と子供の計5名。
2015年6月22日の
13:00〜19:00まで。
約6時間にわたり、
朝日新聞社側の説明を受け、
話し合いが行われました。
・主催者である朝日新聞社に対する
私達3人からの申し出は
以下でした。
〈申し出概要〉
船田玉樹がくも膜下出血となり、
半身不随、右手が不自由になり、
懸命なリハビリの結果、
右手で多くの作品を再び生み出した
という事実はなく、
誤った歴史が周知されている。
特別鑑賞会招待状含む
紙媒体、図録、会場展示等における
上記のくも膜下出血からリハビリの下りの
内容は誤りであると
認識している。
主催者である朝日新聞社には、
早急に事実確認の再調査をして頂き、
訂正すべき箇所は
速やかに訂正して頂きたい。
・以上に対する、
当日の朝日新聞社の事情説明と
申し出の回答は以下。
〈朝日新聞社の事情説明概要〉
「生誕100年 船田玉樹展」は、
東京と広島で開催されており、
東京展においては、
練馬区立美術館と朝日新聞社が
主催者となっている。
主催者という仕事を受け、
また、
主催者が複数の場合、
主催者同士の〝取決め〟を
行うのが慣例である。
〝取決め〟とは、
各々の役割や責任を振り分け、
各主催者は決められた役割を
必ず守る。
この契約を取り交わす約束の事である。
「生誕100年 船田玉樹展」における、
練馬区立美術館と朝日新聞社との
取決めは次の通り。
・練馬区立美術館
展覧会の内容、展示内容、図録内容に関する責任。
これらに対する指摘等があれば、
主催者同士の取決めによって、
全て練馬区立美術館の責任である。
・朝日新聞社
展覧会に関する
印刷物に記載する
「主催 朝日新聞社」という社名使用許可のみが
朝日新聞社の主催者としての責任である。
(デジタル広報含む)
以上が、この度の主催者の取決めであった。
この取決めは、
各々に与えられた役割のみ
責任を持つものであり、
他の主催者の役割には
いかなる事があっても、
踏み込み、意見を述べる事などはできない。
それは、各々の責任分野がはっきりしている為である。
それ故、今回の申し出は、
練馬区立美術館の役割であり
朝日新聞社には、対応する責任は一切ない。
上記の理由で、
朝日新聞社の役割外の責任分野であるため、
主催者ではあるが、対応する立場にはない。
特別鑑賞会招待状の文面に、
〝一時くも膜下出血のため右半身が
不自由になりましたが、その後見事に復活〟
等の記載があり、
この招待状の差出人が
「練馬区立美術館/朝日新聞社」と
印刷、発送されていることについては、
社名の記載許可を出した事に過ぎず、
招待状の文面内容に関しての責任は、
朝日新聞社に全くない。
練馬区立美術館ホームページ内の
「生誕100年船田玉樹
―異端にして正統、孤高の画人生―展」に
以下記載されている文言についても、
一切の責任は朝日新聞社には発生しない。
以下2点は、ホームページ内に記載されている
船田玉樹の紹介文抜粋です。
① 〜さらに驚くのは、60歳を過ぎてから、
クモ膜下出血に倒れ右半身が不自由となりながらも、
右手で筆を持つことにこだわり、
油彩による自画像を描く習練からやり直し、
やがて大画面に樹木の枝を繊細な筆致で捉えた作品を
描くまでになったことです〜
② 〜1974年 この頃、
クモ膜下出血のため右半身が不自由となるも、
右手で筆を握り描き続ける〜
そのため、申し出をされている
事実確認や再調査を、朝日新聞社としては
実施することはできない。
朝日新聞社側から、
練馬区立美術館に対し、
指摘・申し入れなどの相談や働きかけ、
協力を要請して
両者で再調査にあたるという動きは、
考えられないことであり、
あってはならないことである。
主催者としてできる事があるとすれば、
見守る事。
朝日新聞社としては、
このような取決めの存在は、
主催者にとって守秘義務に近いもの。
申し伝えることは異例に近い事である。
そのため、主催者間で取り交した、
取決めに関する正式文書の
公表等はできない。
♢以上のような説明後に行った質疑応答概要♢
私達からの質問
Q1.
朝日新聞社の
新社長に就任した渡辺雅隆氏が
昨年(2014年)12月に発言された公約に
「どんな小さな記事であっても、
その記事に誤りがあれば、
なぜそのような間違いが発生したのか、
ということも含めて
敏速に調査し、速やかに訂正し、読者の方に伝える」
以上の言葉がありました。
今回の見解説明は、
朝日新聞社のあるべき方向性とは
違うのではないでしょうか?
朝日新聞社側の返答
A1.
あなた方は勘違いしておられる。
まず、
渡辺新社長が述べていることは、
編集部の部署に起こった問題のみに
適用されるものである。
この度の件は、
企画事業本部や広報部で発生したものであり、
編集部ではない。
朝日新聞に対するクレーム等は、
朝日新聞編集部が文字にした
記事に対するものに限り、
即対応するという意味である。
この度は、
展覧会の広報はしているが、
実際そのような誤った記事を
自ら発信していない。
HP等の発信は練馬区立美術館であり、
そのため、
再調査も訂正記事も出す必要はない。
あくまでも、
編集局の記事に対する対応の仕方を
新社長は述べているのであって、
誤解のないようにお願いしたい。
私達からの質問
Q2.
朝日新聞社は報道機関です。
事実か事実でないかという問題には、
どのような部署でも
きちんと目を向けるべきではないでしょうか?
朝日新聞社側の返答
A2.
私共の会社は、色々な部署があり
我々は、
企画事業本部と広報部です。
報道には携わっていない部署です。
私達からの質問
Q3.
企画事業本部であっても
広報部であっても、
新聞社という組織の
一員であることには変わりないのでは
ないでしょうか。
新聞社として真実を追い求める
責任があるのではないのですか。
今回の事実とは異なる問題に、
報道機関の一つである新聞社が
関わっていることは事実です。
それが、部署が違うというだけで
自分たちは関係ないので、
何も動けないということですか。
朝日新聞社側の返答
A3.
事実とは異なる可能性はもちろんあるが、
これは、内容の食い違い、
相反する二つの意見があることからきている。
このような場合、
調査は大変難しく
追求しにくいものである。
また主催者という立場上、
主催者の取決めがあるため、
再調査はできない。
私共は、主催者という意味のご説明をしに
こちらに来た次第です。
私達からの質問
Q4.
おっしゃることは頭では理解できますが、
大変悩み困っている一市民として、
報道機関である朝日新聞社に
再調査の依頼や、
練馬区立美術館に対する助言等を
前例がなくとも、お願いするということは
できないのでしょうか。
朝日新聞社側の返答
A4.
主催者側ですので、できません。
改めて申しますが、
編集部と、
企画事業本部及び広報部は
同じ朝日新聞社というくくりではありますが
全く違う部署ということを
まずご理解ください。
主催者という意味合いを、
誤解されていると
お電話で強く思いましたので、
主催者のご説明に来た次第です。
6時間にわたる、
長時間の聞き取り、
また、
私達の思いを受け止めて頂く努力の間に、
様々な質疑応答と説明がありました。
私達は、
小さな事ではありますが
事実とは異なる偽りの歴史が、
文字に残り
また、
多くの方々の脳裏に
残ってしまう事は
あってはならないと
強く思っていた次第です。