前回に引き続き、愛知県は三河が誇る天下の名城岡崎城の其ノ二になります。其ノ壱をご覧になっていないかたはこちら。
→「岡崎城 其ノ壱

 前回までは岡崎城の天守閣までを紹介しました。今回では天守閣から出た後と、かつて二の丸があった場所に建てられている展示館「三河武士のやかた 家康館」を中心に紹介して行きたいと思います。


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 天守閣を出て西に下るとあるのがこの「胞衣(えな)塚」です。胞衣とは人間の胎盤のことを良い、生まれたときに赤子と一緒に母体からでてきます。胞衣は子供の健康や健やかな成長を祈って土間や間口に埋納される習慣がありますが、ここは徳川家康の胞衣を塚として埋納しています。もともと本丸(天守閣)南にあったものがここに移されたそうです。




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 天守閣西側の堀と天然の水堀である伊賀川の間の林を北上すると井戸が見えてきます。この井戸は「産湯の井戸」といい天文11年(1542年)12月26日に徳川家康が生まれた際、この井戸から水をくみ産湯としたという井戸です。徳川家康がこの岡崎で生まれたんだということを実感させられる史跡です。


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 二の丸広場に上がると見えるのがこの本多平八郎忠勝の象です。本多忠勝は徳川家康の腹心とも言える家臣であり、家康の初陣から大阪夏の陣・冬の陣を除く全ての家康の戦に付き従ったまさに家康第一の家来とも言えます(大坂の陣は1614年からだが、本多忠勝はその4年前の1610年に病死している)。徳川四天王にも数えられており、其の戦ぶりは織田信長にして「日本の張飛」といわしめたほどのものであり、

「家康に過ぎたるものが二つあり、唐の頭に本多平八」

と歌にも読まれるほどの、まさに日本一の家臣であったといえます。ちなみに徳川四天王の中でこの本多忠勝の象だけがここ岡崎公園内に存在しています。


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 かつては二の丸があった場所に建てられているのがこの「三河武士のやかた 家康館」です。日本各地の城では天守閣内部が資料館になっていることが多く、ゆかりのある大名に関してもそこで展示されていることが多いのですが、この岡崎城に限ってはその対象である大名が天下を統一した日本一の大名であるためこのようにわざわざ別に資料館が設けられています(おそらく天守閣が小さいというのもあるでしょうが)。ここではかつて三河の地が源氏や足利氏とも縁があったというところから、家康の先祖である松平家の流れ、そして家康の生涯がパネル展示されています。
 特に徳川家康の生涯の展示は秀逸であり、かなりマニアックなことまで詳しく書かれています。徳川家康の生涯をみるということは教科書に載っている範囲の戦国時代の流れをほぼつかむことにも等しく、市内の小中学生の学習の場としても活用されています。
 その中でも最も力を入れて作られている展示が「決戦!関ヶ原」と題されたコーナーで、ここでは大型のスクリーンと成功に作られたジオラマフィギュアによって関が原の合戦がわかりやすく再現されています。これを見るだけでも訪れる価値は十分にある場所であり、全展示をじっくり見るのならば2~3時間は必要でしょう。


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 家康館の内部では岡崎城や家康に関する様々な資料も販売しています。今回はこの家康館の常設展の内容が詳しく書かれた「三河武士のやかた 家康館 常設展示解説書」(岡崎市 2009)と「マンガで読む三河武士列伝其の一」(画竜社 2008)、「マンガで読む三河武士列伝其の二」(画竜社 2010)を購入しました。
 解説書は一冊1000円、漫画の方は一冊700円しますが両方共値段に見合うだけの濃い内容であり、多くの研究に基づいて作成されているため資料としてもかなり優秀なものとなっています。ちなみにここでしか購入することができません。


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 家康館からでるとちょうど時間は午後五時を指していました。毎時00分に二の丸広場にあるからくり時計の仕掛けが始まるのですが、いいタイミングで見ることができました。仕掛けの内容としては家康が能を舞うというものです。家康と能に関する話はあまり聞いたことが無いのですが、この岡崎公園には能楽堂が建てられており、このからくり時計が建てられたのは能楽堂が作られた以後のことであるため、その関係があるのかもしれません。
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 ややアップでの撮影です。家康に似て・・・いるのか・・・?ちなみにもうひとつ仕掛けが隠されていますがそれは実際に行ってのお楽しみということで。


 以上二回にわたり岡崎城をテーマにしてきました。小さいながらも多くの情報が詰まった重要な歴史的史跡であるということを自分自身改めて実感することができました。歴史好きならばここだけを目的地にしてきても十分楽しめる場所ではないでしょうか。

アクセス
東名高速道路岡崎ICより国道一号線を名古屋方面へ約3km
名鉄本線東岡崎駅より徒歩約15分
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(地図引用:http://www.city.okazaki.aichi.jp/museum/ryujyou/ka-s102.htm)

入館料(大人)
岡崎城天守閣:200円
三河武士のやかた 家康館:350円
共通入場券:500円

 このブログでは主に社会に関することを、個人的嗜好に基づく取材(簡単な言葉で言い換えるなら「遊び」になります)を行いながら、できるかぎりマニアックに記事を書いていくというコンセプトに基づいて行きたいと思います。さらにいえば城をはじめとする歴史的史跡と、我が心の故郷である信州の温泉に関する記事がほとんどになると予測されるでしょう。こんなおっさんくさい内容ですが書いている中の人はピチピチの20代半ばです。出来る限り若い視点で行きたいと思います。

 記念すべき第一回のテーマは、私の生まれ育った都市のランドマークでもある「岡崎城」です。戦国時代を代表する武将と言っても過言ではない、かの有名な徳川家康公が生まれ育ったのがこの岡崎城です。徳川家康と言えば江戸城だとか浜松城といった印象が強い人も多いとは思いますが、江戸城は豊臣秀吉による北条氏の小田原城攻めの後に秀吉によって封じられた場所であり、浜松城は家康が29歳の時に信濃の武田氏に対向するために築城した城であるため、徳川家康にとって故郷と言えるのはこの岡崎城になるのです。
 この岡崎城のあるのが愛知県は岡崎市のほぼ中心にある岡崎公園ですが、私も小学校に上がる前からよく散歩で遊びにきており、春には桜まつり、夏には花火大会が行われる会場ということで市民にとっても馴染みの深い場所になっています。しかし歴史的な史跡としては市内の小学生が遠足や社会科見学などで来る以外はあまり観光客も多くない場所という印象があります。今回はこの岡崎城の歴史的な史跡としての価値を改めて見いだすべく取材を行いたいと思います。


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 東海道を前身に持つといわれる国道一号線沿いにまず見えるのがこの大手門です。現在の大手門は復元されたものであり、江戸時代には現在より北東に200m程の位置に、桁行10間、梁行2間4尺(横幅18m、高さ4.8m)の姿で存在していたといわれています。当然旧東海道も現在の国道一号線を走っていたわけではなく、現在でいう若宮通り、伝馬通、連尺通りなどがそれにあたります。かの有名な「東海道二十七曲り」とはこの東海道53次の一つでもある岡崎宿のあたりのことを指しています。


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 大手門をくぐりしばらく進むと徳川家康公の象が見えてきます。正直目立つ二の丸広場の方に進むと見落としがちな位置にいます。天下の大将軍なのに結構ひどい扱いです。時間的に太陽を背負ってしまい、いつもより神々しいお姿を拝むことができました。


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 二の丸広場から林をくぐり、天守閣背後にある空堀を横目にさらに道を進むと天守閣広場に出ることができます。広場と言っても記念碑や龍城神社という神社やらその鳥居やらで結構雑然としていてそんなに広くはない所です。しかし天守閣が最も綺麗に見えるのもこの広場でしょう。
 岡崎城の天守閣は15世紀の前半に西郷頼嗣が建てたものを、家康の祖父にあたる加茂郡系の松平家7代松平清康が1531年に今の場所に移転させたといわれています。家康は徳川家の初代将軍であると同時に松平家の9代目でもあるわけです。天守閣前にはその家康の遺訓の碑が建てられています。
 現在の岡崎城天守閣は明治維新の中で取り壊されてしまったものを昭和34年に復元したものであり、ほぼ昔どおりの外観を誇っています。天守閣の形状は五重塔のように上にいくほど狭まっていく層塔型、ひとつの小天守閣を持つ連立天守閣となっています。外観は3層、内部は5階層の作りとなっており、小さいながらも日本の名城100選のひとつに数えられています。


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 天守閣内部に入るとまず目に入るのがこの石です。ただの飾りではありません。これは「礎石」といって、天守閣の大黒柱とも言える「心柱」の土台となった石であり、当時のままの姿でここに存在しています。心柱を持つ城は珍しく、岡崎城の他には現在世界遺産にもなっている姫路城も心柱を持っています。
 内部展示は主に江戸期の岡崎に関しての展示が中心となっています。本多家4代(康重系)、水野家7代、松平家1代、本多家6代(忠勝系)にわたる江戸期の藩政の様子、花崗岩の加工や花火、宿場町を中心として栄えた町人文化、刀剣や鎧、陣笠などの歴史的遺物の展示がなされています。


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 天守閣5階から北方面を見た眺めです。手前の林のすぐ向こうが二の丸のあった場所で、奥に広がる街並みがちょうど宿場町のあった材木町あたりになります。下の地図を参考にするとわかりやすいでしょう。
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 ちなみに高い建物が見られないのは、岡崎城よりちょうど北方向に今川義元が討たれた後、徳川家康が難を逃れ逃げ帰ったという大樹寺という寺が存在しており、約4km先にあるその寺の門からこの城の天守閣が見えるようにということで制限されていることに起因しています。ちなみに大樹寺の僧兵たちは、家康が大高城を放棄し岡崎に逃げ帰り大樹寺に入った際、追っ手である織田勢と果敢に戦いこれらを撃退しています。こうしたことからも岡崎城に異変があった際はすぐに駆けつけることが出来るようにという配慮があったと考えられます。


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 こちらは天守閣から南方向の眺めです。すぐ真下に見えるのは菅生川(別称乙川)です。上の地図からもわかるように岡崎城の天守閣はすぐ背後にはこの菅生川、すぐ西には伊賀川、さらに少しいったところに大きな川である矢作川が流れています。これらの川は天然の堀の役割をしており、城の防衛面でも非常に大きな役割を果たしていました。ちなみに天下の要害として知られた大阪城も同じようにすぐ背後を川(寝屋川)が流れています。このことからもいかに岡崎城が優れた城であったかがわかります。



其ノ弐に続く