私の成長に投資をするならば、恩返しは利潤であるだろう。

両親(直系)に次いで、高校の親友が連なる。

起業後の雇用も、約束とした。

並んで同伴者(恋人,愛人,婚約者,配偶者)(≠同行者)が超していくのか。

これらは私益と張り合う、そして仲間や世間(運送事業者等)という共益にも拡がりを見せるだろう。延いては公益に繋がる事だ。


幾ら知能は高くても普通の会話が出来なければ困るだろうと言う。

理解も及ばない、異なる世界観で暮らすのかもしれない。

私は割り切れている。

低度な知能(低俗)でも辿り着ける所、その到達点は、高度な知能(高俗*)は幾分も前に、過ぎ去った、飛び立った後である。

相互の理解は困難である。

私自身の知能指数は3であり、これが学生時代からの公称値である。


“この生涯を思考で割り切ってから死にたい”。

この世界に答えが無いならば、私が答えを作れば良いと、中学3年生の頃から考えて今に至る。

この8年間(14,15歳頃~)、過去を振り返れば、私自身が矮小に感じるものである。

それでありながら、大衆的で人間味に溢れる過去の私が愛おしいものだ。

もはや、私自身の思考を他人で再現をする事は困難だと考える。発信をする中で、再現性の担保に努めていても、その先には限界があると感じる。

今では、その場では相手に意味が伝わらなくても、何年後に自覚(意識)をする迄の間、“潜在的(無意識)”に伝わっていればと願う。


特化性と大衆性の両立には線引きが必須である。動的感情と静的論理は会話が引き受けている。

そして、私の文章は文章作品*である。もしかしたら動的論理と静的感情の捌け口を兼ねているかもしれない。事実を煮詰める為には必要不可欠とも捉えられる。


ツイキャスとXが記録を担う。

Chrome,YouTube,Instagramが分別を担う。

LINE,X,Discordが連絡を担う。

Googleのメモとドキュメントが管理を担う。

旅行は将来設計に於ける意義を伴うものだ。

配信も将来設計に於ける意義は含むだろう。