生活に学会人としての襟度を持て

 

 観心本尊抄(御書全集二三九ページ)にいわく、

『止観第五に云く、国土世間亦十種の法を具す所以に悪国土・相・性・体・力等と』云云。

 

 十種の法とは、十界のことである。わが日本の国も、国土世間から漏れるわけにはいかない。しからば、十種の法を具していることになる。しかして、わが国土の様相は、現今、十界のどの部面を呈しているか。言うまでもなく悪国土である。四悪趣充満して、民衆の苦しみは筆舌に尽くしえない。

 

 諸君らにも、この国土に住む民衆なれば、その生活の苦しさは、想像に余りある。さればこそ、信心もなしたことであろう。吾人が朝夕に、大御本尊に対してお祈りするのも、ここにある。

『民衆のもろもろの苦悩を救いたまえ』と。

 

 純真な信心には、功徳があることは、絶対に間違いないことである。さりながら、その人々が、自己の職業にいそしまなかったならば、決して職業上の成功は見られないのである。自己の職業に、人一倍打ちこもうともせず、ただバク然として、信心していけば功徳があらわれて、なんとか成功するであろう、などと考えるのは、これ、大いなる誤りである。

 

 吾人は、声を高らかにして、各人の職業にいそしめと叫ぶ。いかんとなれば、檀越某御返事(御書全集一二九五べージ)に、『御みやづかい(仕官)を法華経とをぼしめせ、「一切世間の治生産業は皆実相と相違背せず」とは此れなり』とおおせられているのは、『みやづかい』とは職業のことであり、『法華経』とは御本尊にてあらせられる。しかれば、職業を御本尊のごとく思えとの御意で、もし職業に熱心でない者があるとすれば、これ謗法なりと吾人は断ずるものである。

 

 また、わが職業に歓喜を覚えぬような者は、信心に歓喜なき者と同様であって、いかに題目を唱えようとも、社会人としての成功はあり得ようがない。また、御文の『一切世間の治生産業』とは、社会人として生活するための職業をさしているのであり、『実相』とは、御本尊の別名である。『相違背せず』とは、職業と御本尊これ一体なりとの御意である。かくのごとく御本仏の御意を、つつしんで拝するならば、どうして、職業をおろそかにできるものか。よくよく思量すべきである。

 

 ましてや、前段にも説いたごとく、わが国土は悪国土である。わが職業に、励むが上にも励まなくては、幸福な生活を営むことはできないのである。借金や貧乏からは、一日も早く立ちのかなくてはならぬ。職業をよくよく大事にして、あらゆる思索を重ねて、成功するよう努力すべきである。また、会社やその他への勤め人は、自分の勤めに、楽しみと研究とを持ち、自分の持ち場をがっちりと守る覚悟の生活が大事である。

 

 よく、聞くところによると、勤務中において、自己の職場で居眠りをする青年男女がある。これ学会人として、なんたる恥さらしであろう。檀越某御返事を、目や心で読まずに、からだで読んでほしい。ましてや、成壮年の人々のなかにもあることを、ときどき聞く。まことに慨嘆の限りである。一日も早く、かかる生活を清算して、他の社会人と比べて、よりりっぱな生活闘争をやり抜く人々になってほしい。すなわち、学会人としての、襟度を持ってほしいのである。

 

『御みやづかいを法華経とをぼしめせ』との日蓮大聖人の御意を、重ねて言うが、学会人は、わが職業を御本尊と思い、それに恋慕し、心に渇仰を生じなくてはならない。かかる人こそ、御本仏の御意にかなう人である。

 

 かくのごとき人こそ、信心に透徹した人といわなくてはならない。かかる精神において生活闘争し、かつ信心を怠らなければ、御本仏のご加護は、絶対にあること疑いなきものである。諸君よ、学会人としての襟度をもって、生活闘争に打ち勝て。

 

(昭和三十年十二月一日)