我見について

 

 あるとき、ひとりの女性が、こんな質問をしてきた。『私の持っている家に住んでいる人を、立ちのかせるために、十万円の金をやることにした。しかし、その十万円が、すぐできなかったので、班長に相談した。ところが、「そんなことを、ひとりで決めて、指導も受けないということは、我見だ」と言われたが、これは我見になるのでしょうか』と。

 

 これを聞いて、私は驚いた。実に、とんでもないことを言う班長だと思ったのである。一体、こんなところに、我見ということばが、使われてよいものであろうか。そもそも、わが学会で使っているところの、我見という意味は、仏法上のことである。

 

 たとえば、身延派が、日蓮大聖人の法義を、誤って解釈している。それをかれらの見識は、我見であるというのである。そして、われらから見れば、邪見となるのである。

 また、ある人が、大聖人の法義を語るとき、正しくこれを説かないで、我流の考え方でこれを説くときに、かれは我見であるというのである。すなわち、どこまでも、正しい大聖人の法義を中心にして考えて、よこしまな、ひとりぎめの法義をば、我見というのであることを忘れてはならない。これらは、仏法上のことであった。

 

つぎに、世法のことになったならば、その人の考え方で行動しなければならないゆえに、すなわち、『我見』であらねばならぬ。世法のことは、我見で決めるのが正しいのである。

よく、世法のことを相談せられたときに、あなたの確信でやりなさいということがあるが、そのときの確信ということが、我見なのである。

 

 ただ、世法のことには、種々雑多な事件がついてまわる。そこで、その人におこった事件について、友人や先輩のなかに、その事件に通達した人がいる場合には、その人とよく相談して、事件を処理しようとすることは、世間法として利口なやり方であり、普通みんながやっている常識でもある。

 

 しかし、その事件を、どう価値的に処理するかという、最後の結論は、これ、その人の我見である。

 

 世法において、確固たる我見、すなわち、処世に対して確固たる自己の見識を持ち、堂々とふるまうことは、なんで悪いことがあろうか。班長だから、地区部長だからとて、世法における方法を、どうして指導できようか。

 私自身にしても、それは、できえないことである。ただ、班長、地区部長が、偉大なる確信をもって言える指導は、信心と、折伏と、御本尊の功徳だけのことである。

 班長、地区部長諸君においても、自分に世法上のことを相談しないからとて、それは我見だなどといわないようにしてほしい。

 

 この私の一文を読まれた方は、読まない人々に、はっきり、これを伝えてほしい。

 確固たる我見はよいが、よく、世に"我の強い人"といわれる人がいる。良くとも、悪くとも、人が迷惑しても、とにかく、自分の思ったことを押し通す人である。あたかも、二つか三つの子どもの行動によく似ている。

 こんな人は、また、よく反省しなければならないものであろう。

 

 しかして、確固たる我見は、いかようにして確立されるものであろうか。

御書(観心本尊抄二五四ページ)にいわく、

『天晴れぬれば地明かなり法華を識る者は世法を得べきか』と。

 

 天晴れぬればとは、信心を確立することである。地明らかとは、自分の行動に明確なる自信があらわれて、また、事実、その行動自身に誤りなきことである。法華を識るとは、御本尊を絶対に信じきって、信行に励むことである。世法を得べきかとは、世のなかの生活法に明らかに通達することである。すなわち、商人なら、どうしたならば金もうけができるか等を、よく知ることができ、勤め人なら、どう勤めたら出世でき、どう努力したなら一家が楽しく生活できるかなどを知ることであり、母親なら、どう子どもを育てたら、りっぱな人物になるかなどを、はっきりと知ることである。

 

 言いかえるならば、世法を得るとは、人その各々の立ち場において明確な価値判断をして、よりよく生きる道を得ることである。それがためには、各人はよろしく信力、行力をさらにさらに強盛にすべきであることを、再言しておく。

 

(昭和三十年十一月一日)