私の悩み

 

 人生とは、楽しむことである。しかし、人として、悩みがないとは言いえないであろう。私にも、大きな悩みがある。この悩みのために、時には怒り、時には悲しむのである。

 

 この私の悩みは、信心を強く立つものが少ないことである。また、初信の者が、大御本尊のご威徳を信ぜずに、退転することである。これらの者は、なんと浅はかな者であろうか。清水のごとく、こんこんとわき出る功徳の味を、味わいきれずに、死んでしまうのである。なんと、かわいそうなことではないか。私の胸のなかは、キリで、もみこまれる思いで一杯である。

 

観心本尊抄(御書全集二四六ページ)にいわく、

『釈尊の因行果徳の二法は妙法蓮華経の五字に具足す我等此の五字を受持すれば自然に彼の因果の功徳を譲り与え給う』云云。

 

 このように、日蓮大聖人は、御本尊を受持しなさい、御本尊を受持すれば、お前らが過去世に、仏になる業因を作っていなくても、これを作ったと同じことにしてやる、そして、ただちに仏になれる、とおっしゃっているのである。仏になるほどの功徳があるならば、病気が直ることや、金持ちになることなどは、小さな事件であるではないか。これを信ずることができない者の多いことは、実に私の悩みである。

 

 また、観心本尊抄(御書全集二四六ぺージ)にいわく、

『四大声聞の領解に云く「無上宝聚・不求自得」云云』と。

 

 無上の宝聚とは、大御本尊のことであらせられる。すなわち、大御本尊様が、無上の宝の聚りなのである。私どもが、この御本尊を受持することによって、私ども自身の命に、無上の宝聚が満ち満ちていることになる。今もし、この御本尊を捨てるならば、無上の宝聚を捨てることになる。悲しむべき限りではないか。また無上の宝聚が命のなかに満ち満ちているとしても、もし、われらの信力・行力がたりなければ、これを、われらの生活のなかに浮き出すことができない。これを知らず、信力・行力弱くして功徳を受けられず、また、これを信ぜずして退転して、無上宝聚を捨てさっていくとは、実に嘆かわしく、はかないことである。

 

 また、重ねて観心本尊抄(御書全集二四六ページ)の次下には、

『妙覚の釈尊は我等が血肉なり因果の功徳は骨髄に非ずや』云云とおおせあって、重ねて大聖人様は、御本尊を受持する者は、御本尊と一体であると、おおせられていることに、よくよく注意すべきである。

 

 また、病ある者は、次の御抄に心を留むべきである。

 

可延定業書(御書全集九八五ページ)にいわく、

『されば日蓮悲母をいのりて候しかば現身に病をいやすのみならず四箇年の寿命をのべたり、今女人の御身として病を身にうけさせ給う・心みに法華経の信心を立てて御らむあるべし』

 

 このように、大御本尊に祈れば、病気は直るだけでなく、命まで延びるとおおせになっているではないか。こんなありがたい御本尊を持ちながら、信ずることが足りなかったり、退転したりするとは、なんというバカ者ばかりの多いことであろうか。少しばかり、人生の苦悩の波にぶつかったからといって、御本尊を信じないとは、浅はかな限りである。

 

 されば、開目抄(御書全集二三二ページ)に、

『善に付け悪につけ法華経をすつるは地獄の業なるぺし』と、おおせられている。

 

 ああ、私のこの悩みが、いつに解消されることであろう。願わくば、一日も早からんことを祈るのみ。

(昭和三十年九月一日)