折伏小論
(一)
折伏のことについて、どうしたならば、組長あるいは会員に、折伏をさせることができるかという質問を、たびたびされる。このことについて、一かつして述べてみよう。
第一に、認識と評価と、実践の問題である。信仰は生活である以上、折伏も、生活の方程式のなかに、はいらなければならない。われわれが、物を買うにしても、売るにしても、まず、その物がどんな物であるかを、認識するのが第一の階程である。卵を買うにしても、リンゴを買うにしても、着物を買うにしても、あるいは、仕事の材料を仕入れるにしても、その物がどんな物であるか、大きいか小さいか、柄が良いか悪いか、自分の仕事が適当しているかいないかの認識を、正しくした後に、さて安いとか、高いとかの評価がおこるのである。評価が定まってから、買うとかやめるとかいう、実践活動がおこってくるのである。
折伏も同様であって、御本尊様がどんなものやら、日蓮正宗がどんなものやら、正確な認識のない者に、それ広宣流布だ、やれ組単位で折伏しろと、いかに指導階級がどなってみたところで、相手は、フフンと、鼻で挨拶するにきまっている。たとえば、反物をもってきて、さあこれを売ってこいと、いくら押しつけてみても、その反物がどんなに安くて、自分がどれだけもうかるかもわからないで、ヘイヘイといって売って歩くバカはいない。
これと同様に、折伏に対しても、まず御本尊様の偉大なる法力、仏力を認識させないことには、どうにもならない。しこうして、この大御本尊様には、絶大なるお力があるのであるから、その祈りのかなわざるなく、福のきたらざるなき偉大なるお徳を、ガッチリと認識させることが、第一条件である。この認識が成り立てば、実にありがたいものだ、だれの悩みでも解決してくれるものだ、どんな願いでもかなえてくれるものだ、という評価が成り立つ。
そうなると、悩める人、祈りのある者、願いある者等のために、この御本尊様を与えたくて、たまらなくなる。すなわち、折伏活動の実践がおこってくるのである。この根本方程式に立って、いっさいに慈悲を基にして指導するならば、大声で、しった勉励しなくても、その人その人の立ち場で、自分自身のために、折伏がなされるはずである。
第二に、よく青年を中心としての質問であるが、組織はできているけれども、その組織をば、どう運営してよかろうかという質問がある。その質問をする人たちは、大体において、班長とか部長とかいうクラスである。私は、組織をどう運営しようとか、組織をどう動かすとかいうことは、末の末であると思う。
たとえば、ここにりっぱに組み立てられた自動車があったとする。この自動車を、どうしたら動かせるかと、腕を組んでながめている運転手がいたら、それは、バカというよりほかはない。学会の組織に、欠陥があるなら別として、組織ができた以上、それをどう動かすかは、問題ではないではないか。たとえば、自動車を動かすには、タンクの中にガソリンをつめればよい。ごく簡単な答えではないか。
各部の部長、班長、分隊長が、その組織を動かすのは、信仰に対する絶対の確信と情熱である。その信仰に対する確信と情熱を、組織のなかへ、エネルギーとしてみなぎらすことである。それで組織は、活発に動かなければならぬ。ことに、青年の確信と情熱が、信仰によって清められ、しこうして、いやましに高められたときに、組織は、グングンと活動するのである。
もし、長たる者に確信がないならば、人を動かすことができるわけがない。自動車でも、自分が運転するという確信をもつことが、まず第一に必要である。しこうして、自分ばかりが、『確信をもった』といっても、それは、ひとりよがりであって、確信のあるところには、おのずから情熱がわく。情熱がなくては、また、物ごとは動き出さないのである。
要するに、その活動が活発になるかならないかは、長たる者の人物にあるという以外にない。牧口先生のいわく、『卒に将たるはやすく、将に将たるは難し』と。これはよく、私に教えられた言葉であるが、学会員をみて、常に、私の思うところである。
(昭和二十七年二月二十五日)