三法律

 

 世のなかに、三つの法律のあることを知らなくてはならない。世間法律、国法律、仏法律の三つである。

 今、日本の国には、仏法を知る者がほとんどなくなった。日蓮正宗以外の坊主は、ほとんど、仏法の定理を信じない。否、知らないのである。ゆえに、仏法律のあることを知らないのである。世間法とは、世間的評判であり、物質的生活内容である。国法律は正邪で、仏法律は勝負である。

 

 世間法と、国法律と、仏法律とを、網にたとえれば、世間法律は大きな目の網で、国法律は中ぐらいの目の網、仏法律は、ごく細かい網の目で、絶対に、この法律をのがれることはできない。

 

 世間に、いかに評判が良く、物質的に豊かであっても、国の法律にはかなわない。国法は世間法よりきびしいのである。いかに、国法に準じ、世間に評判良く、物質的に豊かでも、仏法にそむけば、仏法律は絶対にきびしいのであるから、仏罰は当然である。いかに、世間に評判悪く、貧乏で、万が一、国法にそむくようなことがあっても、仏法律にたがわなければ、冥々の加護があって、世間的にも良くなり、国法の支配を乗り越えた幸福が、起こるのである。

 

 たとえば、日華事変中、三勇士とたたえられた人々は、隊中で飲んだくれで、隊中の評判が良くなかったと聞く。しかるに、一度国のために身を犠牲にするや、かれらは、一躍日本の国法に照らして、三勇士として、一般民衆よりたたえられたのである。これが、世間法より国法が強く、高い証拠である。

 

 芦田均氏は、一国の総理大臣として、評判の高かった人であるが、一度昭電事件に連座するや、国法のさばきをうけなくてはならぬ。世間法では、国法に勝つわけにゆかぬ。

 

 世間法は、世間の交際が良いとか、お世辞が良いとか、商売がうまいとか、財産があるとかによって、この法の利益をうけるのである。

 

 国法は正邪である。国の法律に照らして正であるか、邪であるかの判定をなすのであって、国民全体生活の秩序を乱さぬ最低範囲において、基準がおかれている。この基準において、正邪を定めるのである。

 

 仏法律は、国法をもっていかんともすることのできない、峻厳、かつ崇高な法律である。

 日蓮大聖人は、仏法律に、すこぶる忠順であらせられた。一切民衆に、真実の楽土を建設させんために、命も捨て、苦しみをしのび、悪口に耐えて、ご奮闘をあそばされた。もったいない限りである。

 世間法からみて、決して評判は良くなかった。

 国法に照らして、罪人となして、伊豆へ、佐渡へとご流罪である。国法からみて、世間法からみて、ほめられるご境涯ではない。

 

 しかるに、大聖人は、仏果を成ぜられ、末法の御本仏として、仏国土に君臨あそばされて、東洋の仏法を、ここにご建立なされたのである。だれ人か、大聖人のご心境を奪えるものぞ。いかなる国法も、大聖人の仏果をさまたげうるものぞ。

 

 大聖人が『日蓮が流罪は今生の小苦なれば・なげかしからず、後生には大楽を・うくべければ大に悦ばし』(開目抄二三七ページ)と。されば、仏法律は国法律をもって、いかんともなしがたいものである。国法律は、正邪をもって判じ、仏法律は勝負である。仏法を信ずるものは、その生活において、勝負を決するのである。

 

 末法今時において、日蓮正宗を信じ、ひたすらに題目を唱えるとき、仏法律によって冥々の加護を受け、だれ人も奪いえない真の幸福をうるのである。

 

 ここに考えなければならないのは、最高の仏法律に従うといえども、世間法、国法の一部分であることを忘れてはならないことである。一切法これ仏法である。とくに、世間法にそむき、国法にそむくことはあってはならぬ。ただ、仏法を守らんためには、世間法もそむかねばならぬことはあるのである。

(昭和二十六年九月十日)