日蓮正宗の御僧侶に望む
日蓮正宗教団は、世界に存在する、あらゆる宗教教団中、唯一の宝庫である。世界の全民衆を救うべき、まさに東洋民衆を絶対に救うべき大法理を、七百年の間、守護したてまつった勇敢にして清き教団である。
しかるに、先般、創価学会A級支部長より、つぎのごとき報告があった。
『若き青年僧侶が見えられて、日蓮正宗の広宣流布は、他宗の良いところと、こちらの良いところと合わせて立案し、宣伝をしなくてはならぬと。支部長は、確信をのべて青年僧侶と論争になった』ということであった。
他宗というと、聞こえはよいが、かれらは、みな邪宗であって、日蓮正宗は日蓮大聖人の直系であり、日蓮正宗以外に、正しき日蓮宗はないのである。かれらと比較するに、こちらは金、かれらは銅、鉄というようなものではなく、こちらは良薬で、かれらは毒薬である。同座すら汚れるもので、正宗は仏で、他宗は魔物であり悪鬼である。
しかるに、かれらの行為に取りいれる点があるとする考えは、いかにも腑におちかねることである。これは要するに、当宗の尊厳を信ぜず、大御本尊の偉大な大功徳を、確信しないことによるのではあるまいか。当宗は、折伏においては力弱く、小さな割に和合し結合する点において薄弱の点があって財政的にも心細く、青年僧にとって頼りない感があるのは、無理もないとは思うが、かかる思想が、わが偉大なる日蓮正宗教団に芽生えたことは、これ『法滅尽』の姿が現われたというより以外はない。
宗内に、かかる思想の生ずることは、再度これをいうならば、大御本尊の宇宙大の偉大を信じないことに、基因するものではないかと思う。
日寛上人のおおせにいわく、
『此の本尊の功徳、無量無辺にして、広大深遠の妙用あり。故に暫らくも此の本尊を信じ、南無妙法蓮華経と唱うれば、祈りとして叶わざるなく、罪として滅せざるなく、福として来らざるなく、理として顕われざるなきなり』と。
口でいうことは、やさしい。また口グセにいっているかも知れない。しかし、深く深く心奥に徹するならば、決して他宗云云は、あるべきはずがない。ただ身命をすてて折伏に勇み、宗門の回復に一生を捧ぐべきではなかろうか。ひとえに、広宣流布の大願を、御本尊に祈願し、無学の身なりとも、ただ御本尊を讃美して折伏を行ずるなら、日寛上人のおおせのごとく、必ず願いを達せられると、私は確信するものである。願わくば、日蓮正宗教団は世界第一の教団であり、末法の御本仏の仏法を護持するの教団たる自覚と誇りに立って、愚迷のわれわれに教導をたまわらんことを、切望するものである。
僧衣をまとえば、お小僧さまたりと尊仰するは、われわれ信者の当然の道であるが、この掟を『かさ』にきて、正しき信心、たえざる行学への苦悩もなく、名誉と位置にあこがれ、財力に阿諛するの徒弟が、信者に空威張することなきよう(今の学会幹部はどうだ?)、大御高僧の指導を懇願するものである。また、われわれ信者は、御法主上人を棟梁と仰ぎ、僧俗一致して、折伏の戦野に屍をさらす決心であるが、僧に羞なく俗は僧に恥なきよう、われわれを指導たまわらんことを切願するのである。
立宗七百年に際し、日蓮正宗教団が、全国わずかに一、二万軒を数えるにすぎない現状は、われわれが宗開両祖に対したてまつり、申しわけない次第である。もし、いま宗開両祖がご出現あらば、いかばかりか、お嘆きあり、かつおしかりあるかを思うとき、おそれ多く、もったいなく、かつは申しわけなく、身も心も、いたむものである。
われわれ愚迷の徒輩は、信行弱くして、宗開両祖にかなわぬ身と知るがゆえに、声をからし、身をいためて、折伏の大道に励みつつあるが、御僧侶の後援指導なくしては、とうてい所期の目的を達しえないのである。かかるとき、教団の一部に、意味なき嫉妬による折伏行進の邪魔をなすものがいるのは、まことに残念な次第である。
われわれ愚迷の徒輩の折伏行進の意味を、お見つめくだされて、かかることのならんことをも、あわせて切望するものである。
(昭和二十六年八月十日)