王法と仏法

 

 一国の王法の理想は、庶民がその所をえて、一人ももるる所なく、その業を楽しむのが理想である。最近のある政治家のいうがごとく、一国の政治目的の遂行のためには、一部中小工業者の犠牲はやむをえないとか、税金に苦しんで自殺するものがあっても、いたしかたないとかいうような政治方程式は、決して一国政治の理想的なものではない。

 

 太平洋戦争中の軍部の政治において見たような、戦争目的のためには、大半の民衆を犠牲にしても正しいという考え方は、理想的王法とは、決して言えないのである。平和産業を全部犠牲にして、軍需産業を興隆させ、その結果、多くの民衆は職を失い、生活を楽しむことができないという状態をつくったということは、政治の劣悪を意味する以外、何ものでもない。吾人が体験した、もっとも劣悪な政治は、太平洋戦争中の日本の政治である。

 

 しかし、世界の政治史には、これに近い政治は多く存在するであろうし、今後においても、このわれわれの体験した政治に似た政治が現出するかもしれない。かかる政治のとられる時代の民衆こそ、災難である。哀れなものである。一国の政治は権力であり、偉大な力であるから、これに抵抗することは容易の業でないからである。

 

 ただ悲しみと苦しみが一国に充満し、業をうしない、業に従うものも楽しむことができない。平和と幸福と希望をうしなった民衆ほど、あわれな存在はないと思う。国民に耐乏生活を求めるなどということは、ことばではりっぱであるが、これが国民生活に現われるときには、種々な悲劇を生み出す結果となる。政治をとるものも、その時代として、やむなき事情にあり、それ以外に方法はないとするなら、その民衆も宿命的なものとする以外はあるまい。この劣悪な政治を、吾人は、その時代は忍ばねばならぬとしても、それでよいとして、泣き寝入りするわけにはいくまい。

 

 仏法は、だれ一人をも苦しめない、あらゆる民衆の苦しみをば救うというのが根本であり、今一つの根本は、あらゆる民衆に楽しみをあたえることであり、仏の慈悲というのは、これをいうのである。この慈悲の理論が、王法に具現するならば、前にのべたような劣悪な政治はなくなるのである。政治史において、われわれが尊敬をはらう政治は、その政治をとった人たちが、仏法を知ると知らずとに関せず、仏法の極意が王法に具現されたのにほかならない。この理論を、大聖人様は、つぎのように、おおせられているのは、政治の極意を喝破せられたものである。

『王法仏法に冥じ仏法王法に合す』

この一句のおことばは短いけれども、政治をとるものの心すべき事がらではないであろうか。また、おおせには、『大衆一同の異の苦しみは、日蓮一人の苦しみ』と。慈悲の広大をうかがえるとともに、政治の要諦は、この一言に帰するのである。わが国において、いつの日にか、正しく王法仏法に冥じ、仏法王法に合するときがくるであろうか。

 そのときは、正しい仏法が、正しく民衆に理解され、民衆に信じられるときであって、それがゆえに、吾人は大衆のために、正しい宗教を求め、正しい宗教を叫びつづけているのである。

 

 政治も、経済も、文化も、すべて人間が幸福になるための営みである。とくに、政治は、民衆一人一人の日常生活に、直接、ひびいてくるものであるがゆえに、政治家たるものは、よく大局観に立ち、私利私欲や、部分的な利益に迷わず、目先きの利益に禍されてはならないはずである。

 

 正しい世界観、正しい人生観は、いかにして、つちかわれるか。ここにこそ、日蓮大聖人の正しい仏法が、厳存していることに目覚めなければならないと、主張するものである。

(昭和二十五年三月十日)