無用の長物

 

 坊主ほど、日本再建の今日、無用のものはない。かれらは、なんのために法事や葬式にお経を読むのかということを、深く考えたことがあろうか。先祖代々、各宗各宗によって、葬式や法事のとき、お経を読んできた。自分も坊主になったのだから、葬式や法事に、師匠ゆずりの経を読む。そうして、お布施と称する労働代金をもらう。それで本人は不思議ないとしても、よくよく考えてみると、こちらでは不思議でならない。

 

 お経を読むことは、なんのためなのか。葬式や法事になくてならない儀式の一つで、家族、知友が、それによって涙するだけの効能とするならば、酒宴の席上、芸者なるものが出てきて、三味線とかいうものを弾いて、客の興をたすけるのと、陰陽異なりといえども、その効能は同じである。

 

 そうなると、坊主と芸者は同じようなものであるが、芸者は女一人食うだけで、大きな寺のような建物をもっているものではない。坊主は大きな寺をもって、大威張りで労働代金を過分に請求する。一つの牧場で、小羊が食う草と、大象の食う草ほどの相違で、大変な無用の長物である。

 坊主どもに、さも指導者のような顔をさせて、芸者のような職業をさせている民衆は、バカだとしかいえない。

 

 共産党の烈々たる闘士も、黄金の代表のような金融業者も、軍国主義の大親分方も、一度死に直面すると、また死んでしまうと、坊主が大威張りとなる。どういうわけだろう。

 

 習慣ですませないものがある。なぜなら、坊主の大先祖は釈迦であり、仏であらせられる。仏も釈迦も、世の苦難を救う大救世主であり、一大哲学者であり、大実践家である。

 なんのために、釈尊は経を読まれたのか。釈尊の教えを、そのままつがれた天台大師でも、章安大師でも、伝教大師でも、みな経を読んでおられる。経を読むことには意味があるらしい。

 

 さて、今の坊主が、経をなんのために、死者のために読むのか。もし死んで、唯物論者のように、この世に、その人がいないなら、坊主の必要はない。死者がこの世にいるとするなら、どんな所に、どんなにしているのか。

 また、その生命に、どんな経文を、どんなにして読んだら良いのか。このような問題を、みずから深く掘りさげて、解決して、その上に、確信をもって経を読む坊主が、いく人いるだろうか。

 

 しかも釈迦が、自分の経文は、自分の死後二千年したなら、どんなに読んでも効能がないと確言しているのに、その空の経文を、空々しく、これを知って読むものがあろうか。知らないとすれば、なおバカだ。このバカに、だまされるヤツは、なおバカだ。

 

 どんな意味から考えても、歌にもならず、役にも立たぬ経文を、しらじら読んで、『読み賃』を取って、食っている坊主は悪人でもあり、詐欺漢でもあり、非生産的な存在である。

 

 今日の日本に、こんな種類の人間を養う余力はない。ゆえに、吾人は叫ぶ。

『現代の坊主は、まず放逐せよ! さもなくんば重労働を課せ』と。

 

 また、このような、わけのわからない存在に対して、疑問も持たないし、不思議にも思わないで、ただ親ゆずりと放任しておく一般大衆の無智、鈍感、封建制に対しても、われわれは、あきれざるをえないのである。

 余のことばによって、猛り狂う坊主あらば、来って法談せよ。なんじらに、みずからの道をあたえん。

(昭和二十四年九月十日)