牧口先生追憶談
普通、世間に言うときには、初代会長と私は申しておりますが、私が心で呼ぶときには『おやじ』と呼び、呼んでおります。
一番弟子という気持ちで、自分はいるのですが、さぞや、ずいぶんほめられたと思うでありましょうけれども、追憶談になってくれば、いっぺんもほめてくれない。文句はずいぶん言われた。文句の数々を数えれば、数限りないほどある。それで、いっぺんもほめられないのです。ついでに、いっぺんほめられてみたいと思ったことはあるけれども、ほめられない。
いちばん悔しかったことがある。それは、ある事件がありまして、目黒の駅でお別れする時に報告をしたのです。返事をしない。『そうか』と。こっちはいいと思って、そのとおりやってしまった。そうしたらおこるのです。『でも、先生、報告したではありませんか』と言ったのです。『聞いたけれども、いいとも悪いとも言わなかった』と言うのです。
これには私も負けました。ペテンにかかったみたいなものです。『それを、やっていいとか、悪いとか言わなかった』というのです。『おまえから報告を聞いただけだ。それを、おまえが、そんなヘマやったのでは、だめではないか』と、頭ごなしにおこられてしまった。それで悔しい思いをし、毎晩きちんと報告をしたのだから、なんとか言ってくれればいいのに、ほんとです。その時だけ、ペテンにひっかかったみたいな気持ちでした。
そういう、やかましい人でありました。だから、私は、初代にはほめられたことがない。やはり、いちばん悪い弟子のうちに、はいっているかもしりません。ほめられたことはないのだから。一回もほめられたことはない。
文句ばかり言われて。おやじというのは、ああいうものでしょうか。これは、追憶談の一つとして、皆さんに伝えるしだいです。
そういう人でした。厳格な、そして、まじめな、それで、恩情のある人でした。小泉君や、あるいは和泉君たちは、皆ほめられた口にはいっているのだけれども、原島君なんかも。私だけです、おこられてばかりいたのは。
そういう弟子もいるのだから、おれに少々文句を言われても、これは、初代の、伝統と思ってください。
それで以上、追憶談、これで終わり。
昭和32年11月18日
牧口先生第十四回忌法要
池袋常在寺