入信者に親切な指導を
今月の折伏の数がひじょうに多い。これは一面まことに喜ばしいことでありますが、半面またひじょうな憂いをもつものであります。それは、この多い入信者が、ほんとうに最後まで信心していけるかどうかという憂いであります。
皆さまもじゅうぶん承知でありましょうが、そうとう退転する者もある。また信仰に熱心でない者もある。ところが、また半面、五年、六年と、あるいは四年ぐらいでも、まじめに信仰した人はひじょうに生活が向上し、願いもかなっている。一方によくなった人をみるにつけ、信心をやめたり、あるいは不熱心のために、宝の山にはいっていながら宝を持たないで帰る人の姿が、しみじみと思われるのであります。
このなかには、幹部になられた以上には、そうとうの功徳を受けた人がおられることと信じます。また、そうでなければならないわけであります。きのう、NHKの記者がまいりまして、大阪の婦人の時間に放送するのだからと言って、いろいろな話をした。そのなかの質問に、こういうのがある。『この信仰をして、しあわせになるといっても、なかには、ならない者もあるのではないか』という質問なのです。『断じて、そんなことはない』と私は言いました。
人が酒を飲んで、その人の体質もありますが、一升の酒でも酔わないのがいるけれど、五升飲ましてみたらどうだというのです。必ず酔うのがあたりまえ、御飯を食ベるにしても、五はいも六ぱいも食べさせて、まだ腹へっている人間はなかろうと思う。御飯を食べて、おなかがいっぱいになるように、この信心をして、しあわせにならないわけは絶対にないのです。
ただ、信心の厚薄と時間の長短はあります。ある病気をしたとすれば、その病気の重さ軽さによって、同じ薬でも早くきく場合と、時間がかかる場合があるように、われわれ過去世の宿業のゆえをもって、その打破に対する因行はできてるが、果徳が少し遅くなる場合があるにはありますが、絶対に、しあわせになるということだけは、間違いのない事実であります。
ですから、どうか御本尊様をたもたせて、それを粗末にしたために、一生涯損をする、そういうかわいそうな人たちをこしらえないように、今晩お集まりの幹部の皆さんは、できるだけ会員の人たちの世話を懇切に指導してやって『信心してよかった』と、そういう信心の喜びを味あわせていただきたいと思います。
昭和32年8月28日
本部幹部会
豊島公会堂