僧俗一致の実践
昔から、僧俗一致ということが、わが宗内では叫ばれている。ところが、僧俗一致していたような寺はなかった。
なぜないかという理由は、この信者側も悪い。坊さん側にもある。なぜかというと、お坊さん側では、信者を子分か家来のようにして、使おうという頭がある。信者側では、坊さんを養っているという頭がある。
ある御尊師が言うたことばですが『どうも、旧信者は、金を出さないで文句ばかりいっている。困ったものだ』というおことばをうけたまわったことがありますが、これは冗談であるか、ウソであるか、ほんとうであるか、私は知りません。この点を直さなければならんのです。
ただ、お坊さんのなかでも、人格が高く、学問の深い方は、なんにも問題は起こっておらない。ことばでも不快気分を与えないだけの気持ちを、信者に起こさせる。
自分に力がなく、また、いいかげんだというと、信者の実力ある者の機嫌をとって、そうして、その、自分の地位を安定せしめようとする坊さんがある。そういう坊さんに機嫌とられたら信者は、必ず退転して、ろくな目にあわない。
いつも、夕張だけは、ほかも、また行きますけれど、ここで最初に注意しておくことは、お坊さんに、己れはおせじを使わないで、そして、どこまでも尊敬する。尊敬とおせじは違います。ここは紙一重の差がついている。尊敬する。そうして、できるだけこのお寺の御僧侶が、不自由のないようにすることを心がける。
そのかわり、御尊師にもし間違いがあるならば、陰口なんてきかずに、正々堂々と、忠告すること。これは罰になりません。陰口は罰になります。
だが、面と向かって、堂々と話すことは、けっして罰にはなりません。しっかり、やりなさい。
昭和32年8月20日
入仏落慶式あいさつ
夕張興隆寺