確信をもって生きよ

 

 若い時代に、とくに大切なものは、自分の心を信ずるということである。自分の心というものは信じ難い。中心が動揺し、迷っている若い時代は、ことにありがちである。しかし、低級な宗教といえども、彼らは、ひとつの確信を人間に与える。

 

 確信を与えられるということは、かんたんに言えば、自分が病気になった場合、自分は鯖を食ベればなおる、私は刺し身を食べればなおる、私は薬を飲めばなおるという、ひとつの確信をもつことである。どうやったら生きていけるか、それがおのおのの確信になる。

 

 あなたたちはどう思う。信心しているものの、自分はりっぱに成功できるという確信があるかどうか、自分の心に聞いてみたまえ。ないだろう。若い人がりっぱにならなかったらしようがないだろう。

 

 君たちは、生きているあいだに一千万の金持ちになってみせよう。私は大臣に、総理大臣になろうと考えるだろう。それは希望です。

 その志を貫くものは心です。これが確信です。私は刺し身さえ食えば、絶対、総理大臣になれるなら刺し身を食べればよいではないか。

 

 私はアメリカのポパイという漫画を見た。ポパイは、あれは弱くて負けてばかりいるが、ホウレン草を食べるとすぐ強くなる。たちまち敵を投げとばしてしまう。あれはホウレン草というものを信仰しているのである。最近、アイクが病気になったというが、彼がホウレン草の信者ならホウレン草さえ持って行けばよい。すぐなおるだろう。

 

 今度、岸君が東南アジアへ行ったし、また、アメリカへ行く。彼にいかなる確信ありやと私は思う。

 さあ、そこで諸君は考えねばならない。ぼくは今度病気をした。ちょうど二週間やられた。皆が、やれ病院へ行けとか、やれ名医にかかれとか、うるさくてしようがない。だが私には確信がある。絶対死なないという確信がある。死んでたまるものか。

 

 そこが確信の問題だ。低級宗教でも確信がある。ホウレン草を食べても強くなるのにさ、世界第一の宗教を信じている私が、病院にはいらねばなおらない、医者にかからねばなおらない、そんないくじなしではだめではないか。

 医者というものはうるさいもので、私が腎臓が悪いのに、カラシを入れた納豆を食べるのをみて、腎臓に悪いという。好きで食べるのだもの、悪くなりはせん。それが確信だ。腎臓なんかなおってしまった。

 

 自分の心に一つの確信なくしては、生きていけません。自分は御本尊様を信じている。だからどんなに困っても必ず助かっていく、大丈夫だ。

 この確信があれば、なにをしてもよろしい。だが、泥棒やサギをやってはいかん。人生に生きる道であるなら、正しいと思ったなら、御本尊様を信じて、御本尊様を確信の芯にするのです。

 

 病気、貧乏であろうと、絶対、克服できる。それは、信というものが、必ずなくてはならない。

 

 異体同心の心というものは、心ではないのです。異体同心の心は信ずる心です。信仰が同じという意味です。

それが異体同心である。

 

 その心が強ければ強いほど、いかなることがあっても青年は敗れることはない。

 青年は自ら信ずるものをもたねばならない。自らの心を信じなければならない。

 

 この心はあぶないものであるから、御本尊様によってこの信を立てるのです

 そうすれば、一生涯、悠々と生きていけると信じます。この立ち場に自らも生き、他人をも指導していってほしい。そこに君たちを信じて私の講演を終わる。

 

昭和32年6月12日

男子青年部幹部会

品川公会堂