時にかなう信心は折伏

 

 時にかなうということは、大事なことであります。いうまでもなく、秋に稲を植えてみたところで、実るわけではない。実らないということは、功徳がないということで、いまごろ、ヨロイ、カブトをつくって、売ってみたところが、商売になるわけではない。

 

 このように、時にかなうということは、なんの商売によらず大事なことです。自分たちの商売を考えてみても、この国始まって以来の景気だといわれている今日、今の時にかなわない商売をしたら、もうからんにきまっている。もうからんということは、功徳がないことです。

 

 同じく、宗教というものは、観念的なものではない。ところが、いままでの宗教は御利益がないから、心で観念的なものにしたり、あるいは精神修養にしたりしている。そこまでいけないあいだは、邪宗の法華経によった中山や身延は、しかたがないから真言のまねをして、祈とうなんか始めている。

 それでも御利益がない。結局は、観念的なもの、祈とう的なもの、あるいは精神修養だとか、皆、時にかなわないごまかしをやる。

 

 時にかなう宗教というならば、日蓮正宗をおいて、ほかにないのです。しかし、日蓮正宗の信心にいたしましても、時にかなう信心の仕方がある。ただ自分だけが題目を唱えているのでは、時にかなう信心とはいえないのです。

 

 時にかなう信心というのは、折伏以外にない。折伏こそ、時にかなう信心なのです。その折伏の根本精神が慈悲です。相手を助けてやろうという心です。その心に充満して、相手を折伏するならば、相手がきかないわけがない。どんなきかない子供でも、母親の愛情には、かなわない。それは、母親は絶対、子供をかわいがるからです。慈悲の心にはかなわないです。

 

 末法の宗教、日蓮正宗こそ、時にかなう宗教である。ところが、この、時にかなう宗教のうちに、その信仰にかなう折伏をしながら、でたらめな折伏、あるいは、なかには腹をたてて、『お前みたいなやつは、七日で死んでしまう』なんてウソをついている。そういう折伏は、いかん。

 慈悲に満ちて、相手をどうしても救ってやろうという心になって折伏してこそ、末法の信仰にかなうのです。

 

この時に、回向という、自然にその折伏した人に功徳があらわれてくる。『おれは十五人折伏したが、まだ、ちっとも功徳が出てこない』なんて、そんな欲ばった根性ではいかん。相手を救う真心に満ちた折伏をしておれば、願わずとも自然に功徳が現われる。

 

 あまり長い講演をしても、みんな、もう、さんざん聞きあきているだろうから、これくらいにしておくが、きょうから、その気持ちで折伏することです。末法の信仰にかなう行動、それは折伏です。慈悲の行動であって、情けの行動である。それを心によく思ってしっかり頼む。

 

昭和32年5月3日

第十六回春季総会

両国日大講堂