幸福で胸を張る時代
総本山へ登山する人の姿を見ましたときに、胸を張って、自分は幸福に生きているという姿で登山している人を、あまり多く見受けないのは、まことに残念であります。なんとなく首をうなだれているような感じがする。
お山は、われわれの父親のところのようなものである。おとうさんのところに帰った時のような、喜びの気持ちは、登山者にじゅうぶんあふれておりますが、しかし、日常、お山でない自分の生活のうちうちで暮らす態度のなかには、なんとなく、そうでないものを感ずるものです。
しかし、あなたよりも、まだまだ信仰しない、しかも邪宗教に迷わされている人は、まだまだ首をうなだれているようにみえます。私は、願わくは、日本国じゅうの人々がみな胸を張って意気洋々と生きていける日の、一日も早からんことを望んでいるものであります。
いつも申し上げますように、われわれの幸福のなかには、相対的幸福と、絶対的幸福というものがあります。
相対的幸福というのは、金がほしい、りっぱな家がほしい、家のなかが明るくなりたい、商売を繁盛させたい等、これは皆、相対的な幸福であります。しかし、これがなければ、われわれは生きがいを感ずることができない。
よく『仏法というものは、そういうことを言うものではない。もっともっと、すがすがしいものだ』という人がある。しかし、そんなことは観念論である。真実の宗教ではない。
われわれが、金をもうけたい、りっぱな家にはいりたい、丈夫でありたいと願うことは、あたりまえのことです。それをかなえてくれる宗教こそ、真実の宗教なのです。
皆さんは、それを願って信仰をする。だが、邪宗教では、絶対にそれはかなえられない。わが正宗だけ、かなうのであります。
私が、ドロボウよりも、詐欺師よりも、邪宗の者がまだ悪いと断ずるのは、わが日蓮正宗の者が、胸を張って生きんがために、経済的にもせよ、健康面にもせよ、すべてに戦っているのに反して、彼ら邪宗の者は、なににかかわらず反対現象を起こしてしまうからです。
それでも、彼らは平気でいる。したがって、邪宗教を撲滅しなければならない。これは理の当然であります。しかし、なかなかバイ菌のようなもので、すぐは、なくならない。始末が悪い。栄養失調の時にふえるシラミのようなものです。
だが、身延などは、もうつぶさなくてもよいのです。ひとりでつぶれかかっていますから。立正佼成会なども、つぶさなくてもひとりでつぶれかかっている。まあ、安心してよろしいでしょう。だんだんと、今度はシラミが栄養失調になりそうですから。
ただ、日蓮正宗の信者だけが、相対的な幸福というものができ上がってくる。金のない者には金ができる。弱い者は丈夫になる。しかし、ただわれわれは、それだけを願っておりながら、将来は絶対的幸福境涯にはいるのです。
絶対的幸福などということは、あなた方は願ってはいない。願っていないのに、あなた方は、そうならなければならない。まことにいやでしようけれども。
絶対的幸福というのは、どこにいても、生きがいを感ずる境涯、どこにいても、生きている自体が楽しい、そういう境涯があるのです。したがって、その人のいるところは、いつも明るい、けんかなどありません。腹のたつことがあっても、愉快に腹がたつ、そういう境涯ができたら、うれしくありませんか。
早く相対的幸福を完成して、予想もしなかった絶対的幸福を、ひとりひとりが得られんことを希望して、私の講演を終わります。
昭和31年5月3日
創価学会第十四回総会
両国日本大学講堂