常楽我浄
きのう、汽車のなかで、指導監査部長の質問で生命論の話をしてきましたが、仏法で大事なことは常楽我浄である。
小乗教では、苦、空、無常、無我の四法輪を立てる。大乗教にくると、クルッと変わって、常楽我浄と立てるのである。そして、これを四菩薩さまに配している。常は永久を表わし、我は我を表わし、楽は楽しみを表わし、浄は清らかということなのであります。そして、四菩薩に配すれば、上行は我、無辺行は常、安立行は楽、浄行は浄である。
しからば、我とはなにか。皆さんが生活しているときに、我、おれというものがある。この我が死ねばどうなるかが問題である。これがわかれば、いっさいの生命論の定理がわかる。しかし、わかったからといって、幸福にはなれないのです。幸福になるためには、やっぱり御本尊様を拝む以外にはないのです。
山之内君が死んでしまった。この山之内君の生命は大宇宙のなかに溶け込んでしまって、どこにいるかわからない。いつも話すが、ここには、ドイツの電波も、イギリスの電波も、また、アメリカや中国のもある。あるいは、東京のNHKの電波も、もちろん存在している。そして、それらはおぶさったり、抱き合ったりしているわけではなく、おたがいに、ちっとも、じゃまにならない。
それと同じように、あらゆる生命は宇宙に溶け込んで、ちっとも、じゃまにならない。我は常住だから、山之内君は肉体も精神もなく、みずから業報を感じながら、宇宙生命のなかに溶け込んでしまっている。
それは、あたかも夢のごときものである。幸福な状態で死んだときは、それは、ぐっすりと安楽に熟睡しているのであり、不幸な状態で死んだときは、それは、あたかも犬に追われて逃げようとあせり、いまにも追いつかれそうで、もだえ苦しんでいる、悪夢にうなされているようなものである。
題目の力は偉大である。苦しい業を感ずる生命が、あたかも美しい花園に遊ぶがごとき、安らかな夢のごとき状態に変化させるのである。山之内君は、少なくとも、汽車にひかれて死んだのであるから、けっしてよい業を感じているわけにはいかない。
それを皆さんのお題目の力によって救われ、そして花園に遊ぶがごとき業を感ずるようになるのです。これが死後の生命の実体です。
皆さん、よくよく信心に励んで、生まれた時から、すこやかで、朗らかで、人生を花園のごとく思って暮らすようにしたいものです。
昭和30年2月20日
山之内君納骨式
総本山富士大石寺客殿