7つの習慣の本文最後にある「個人的な追伸」、これと、仏法(法華経)との違いを書いてみる
コヴィー氏が言う;
本稿を終えるにあたり、正しい原則の根源に関する私の個人的な信念を分かち合いたい。
正しい原則とは自然の法則であり、神あるいは偉大な創造主がその源であり、また私たちの良心の根源であると、私は信じている。
『ここで、私見ではあるが、;
正しい原則とは自然の法則であり(理解できる)、仏法では源は生命(宇宙全て)である。創造主ではない。もともと在ったものである。こう捉える。この違いが大事である。ここから釈迦の法華経が説かれ、一念三千が天台によって説かれる。
キリストが磔にされ槍で突かれた際に、『神よ!なぜ』と言ったのが本当なら、コヴィー氏が言うように、神、あるいは創造主と考えるのは、当然ではあるが、所謂キリスト教に影響を受けた考え方だと思う。
しかし、この考え方が、今までの西欧社会が行ってきた、力による争い、世界で行ってきた戦争、植民地、奴隷の存在を当然と考える、このような背景の原因である。
私は、本当にキリストが悟った(言った)ことが、旧約聖書(もちろんキリスト誕生前であるが)や新約聖書に書かれているのだろうかと疑う。キリスト教が広まったのはローマ帝国だったと思うが、はじめは迫害されたが、後で取り入れられたとのこと。しかし、それは、その時の支配者にとって都合のいいように変えられているのではないだろうかと思っている。(奴隷も認めるのだろうか?そんなことはないだろう。)そう思う根拠は私にはない。
創造主がいると考えることで、創造主と創造物との明確な分離がでてくる。それが、神と悪魔(支配するものと支配されるもの・西欧社会では、そうなっているのでは?)という背反することが、あらゆるところで発生してしまう。このことが原因で、西欧社会は悲惨な争い(片方では人権を叫び、もう片方では人を殺しても平気だという、また、魔女狩りもそうではないか。人種差別もそうである。)が絶えない。
この考え方の中にコヴィー氏が言う「良心」も含まれることになる。そして「良心」は戸田城聖先生(仏法)から言わせれば、曖昧な生き方(各人で異なる)になってしまう。
『戸田城聖全集第三巻9 三種の悟り ― 釈迦、日蓮大聖人、衆生
https://ameblo.jp/sirofujikeisetu/entry-12856544143.html?frm=theme』
創造主としたことで、良心の根源は曖昧になってしまう。ここから考えれば、仏教(東洋哲学)が一段と深い。
またそのことにより、三世の生命、過去、現在、未来に同じ生命「我」が存在する。なぜなら自然の法則だからである。
最後にコヴィー氏は言う。
また私たちの良心に沿って生きる限りにおいては、その本来の可能性を満たすことができ、それに沿って行動しなければ動物のレベルを超えることはないと確信している。
人々がこの神聖な良心の根源であると、私は信じている。また、人々がこの神聖な良心(これはなんなのか?)
教育や法律だけでは影響できない側面が人間にはあり、それは神の力(仏法では、これは人間の生命力と説く。生命力により変化する。神ではない、自分の外にあるのではない。自分の中にあるもの、と説く。)によってのみ変えることができると、私は信じている。人間は自らを完成させることはできない。正しい原則(自然の法則)に自分の生活をどれだけ合わせるかにより、私たちの中に神の力が宿り、それに応じて、自分の本来与えられた可能性を発揮することができるのである。ティルハード・D・チャーディンの言葉を借りるならば、「我々は霊的な経験をしている人間ではない。人間的な経験をしている霊なのである」ということだ。
私は、この本の中で取り上げた多くのことに関して、今もなお奮闘努力を続けている。しかし、それに取り組むことは有意義であり、そこから得られる報いも非常に大きい。それは、私の人生に意味を与え、愛し、奉仕をし、努力を続ける力の源である。
T・S・エリオットが、私の個人的な発見と信念を美しく表現している。
「我々は探究をやめてはならない。そして、我々のすべての探究の最後は、初めにいた場所に戻ることであり、その場所を初めて知ることである」これ、どんな意味かな?このことを言いたいのか?
『日蓮大聖人におかれては、釈尊が仏の境涯から久遠の生命を観ぜられたのにたいして、大聖人は名字即の凡夫位において、本有の生命、常住の仏を説きいだされている。すなわち凡夫のわれわれのすがた自体が無始本有のすがたである。瞬間は永遠をはらみ、永遠は瞬間の連続である。久遠とは、はたらかさず、つくろわず、もとのままと説かれているのである。』
戸田城聖全集第三巻4 生命論3 永遠の生命
https://ameblo.jp/sirofujikeisetu/entry-12855919567.html?frm=theme
良心の根源とは何であろうか。日蓮大聖人の仏法では、「生命」又は「南無妙法蓮華経」である。この南無妙法蓮華経と読誦すれば、生命力が湧く。これは、音楽の調べにより、心が軽くなったり暗くなったりするように、本来人が持っている仏の生命が、読誦により生命が感応し、仏の生命が呼び出され、その生命力によって人の生活を幸福に導く、と説く。
コヴィー氏が言う「正しい原則(自然の法則)に自分の生活をどれだけ合わせるかにより、私たちの中に神の力が宿り、それに応じて、自分の本来与えられた可能性を発揮することができるのである。」は、この「正しい原則(自然の法則)に自分の生活をどれだけ合わせるか」は、非常に難しくないだろうか。生活に余裕が持てる人には、この追及をすることはできなくはないであろうが、私たち、凡夫では非常に困難である。
ただし、南無妙法蓮華経と唱えることは、「妙法蓮華経」に「南無する」従う、帰一するということであると捉えれば、同じことへの方向を向いていると思っている。