異体同心

 

 東洋哲学の根元を説くならば、数かぎりないが、きょう出たことばのなかから話す。

 

 午前中のは方法論、じっさいであるが、いまは原理について話そう。

 

 ここで一言弁明しておきたいことは、わたくしが先刻赤ん坊をだいていたことであるが、未来の青年部を紹介したのである。

 

 さて、いま柏原君の話しのなかに、破和合僧とあったが、僧とは、社会を指導し、人を救う資格をもつのが僧である。心中では互いに憎しみ、猫がねずみをうかがうように、形は法衣をまとっても僧ではなく、いまの学会の組長、班長がいっしょうけんめいで、いっさいの人々のために働いている姿こそ、真の僧といえるのである。

 

私見:戸田城聖全集第2巻講演集1965年 31 御書出版事業を終えて
宗門の援助がえられぬと決定したけれども、堀日享上人お一人のお力をいただいて御書が完成
https://ameblo.jp/sirofujikeisetu/entry-12911951092.html


戸田城聖全集4巻座談会集編1965年
堀日亨上人と創価学会との関係
https://ameblo.jp/sirofujikeisetu/entry-12885542462.html?frm=theme

 

 この結合を破るものには、必ず罰がある。うそだと思ったら、やってみたまえ。和合僧とは、仏法上の哲理をもってすれば、学会のことである。

 

 異体同心ということばをよく聞くが、このことは間違ってはいけない。夫婦の心がいつも同じでいられるか。親子が同じ心なのか。まして、他人の心が同じか。みんなは同心という心が読めないから、信心を誤るのである。

 

 ある人に、きみとわたくしとは同じ信心だから、異体同心であるといわれて、金を貸してやって、返してくれないとか、また、借りたいのにあの人は同じ信心をしているが、金を貸してくれないとか、そういうようなことをいって、お互いに憎み合ったりしている。こんなにたやすく異体同心をあつかってはならない。

 

 この貸してくれにはふた通りある。貸してくれと、貸してに力をいれて、くれを小さくいうものは返す。貸してくれと、貸してを小さくいって、くれを大きくいうものは返さないつもりである。

 

 返さないものを恨んだりしたら、その自分の福運を無くしてしまう。御本尊様を信ずるものを恨んだなら、うそであれ、じつであれ、罰がある。相手を真に思っているのなら、責めて、責めて返させるのが慈悲である。

 

 同心の心は、観心に通ずる。この、観心が同じであるゆえ、異体同心という。弘安二年十月十二日の大御本尊様を、信じ奉る心が同じであるゆえに、かくいうのである。

 

さて、肝心かなめの大問題にはいるが、さきほどは信心のあり方に、いかなることが信心の極地であるかと説いた。われわれの生命とは、いかなるものであるかを知れば、いっさいの仏法は、はっきりする。

 

われわれは、この五体のまま、永遠につづいているのである。さきほどわたくしが抱いた未来の青年部隊長は、だんだん大きくなって年をとり、死んでいく。かれの生命はそのままつづいてゆくのである。赤ん坊が年をとったからといって生まれ変わったのではない。生命はそのままで、死ぬまで本質は変わらない。

医学上、七年たつと、細胞がぜんぶ変わってしまうといわれているが、それだからといって、七年前に借金をしたのに、七年たったから自分はもとの自分と生まれ変わったから、そんな借金は知らぬとはいえないだろう。

わからないから無いとはいえぬ。事実は、いかんともすることができないのである。きみらが生命の永遠を否定しても、事実は有る。そこに仏教がある。来世に、病人や貧乏人に生まれてくるのはよそうではないか。思う通りの、りっぱな生活がしたいと思うなら、現世において成仏する以外はない。

 

ただ、最後に、さきほど子どもが親のことばに反対して、八万世帯というのに二十万世帯にするという。まことに親不孝のようではあるけれども、それが、みんなの幸福になるのなら、この親不孝は許す。

 

昭和28年11月22日

創価学会第九回総会午後

中央大学講堂