人生は楽しむもの
八歳の子どもが、十貫の荷を持って、八里の山道を歩くとすると、その子どもはどんなに苦しいでしょうか。
しかし、すもうとりが、どうようにして山を越すとすれば、秋のけしきをながめながら、楽しんで越すであろう。
いま世のなかをみるに、家族八人もの荷、商売不振の荷、肺病等の荷を負って、よたよた歩いている人と、ゆうゆうと人生を歩いている人とがある。そして、わたくしが思うのに、どうも、よたよた組が多い。ゆえに、世のなかを苦しみの場と思いこんでいる。
しかし、われわれはなんのために生まれてきたのか。衆生所遊楽とて、遊びにきたのである。
楽しまないのはかわいそうではないか。真の信心の頂点は、生きていること、それじたいが楽しいのでなければならぬ。
相対的幸福は低い。絶対的幸福、借金取りがきてもうれしくてたまらぬ生活である。女房と話しをしても、朝起きても、ご飯をたべても楽しいという人生こそ、信じきったときでてくるのである。
苦のみ味わっていては、生ある甲斐はないではないか。それはしょっぱい"しゃけ"である。
世のなかを幸福に楽しめるにはどうすればよいか。金がなく、病気でも楽しいというのは、うそである。金もあり、体力あり、そして根本に生命力がいる。これは、理屈やふんばりでは出てこない。三大秘法のこの御本尊様を拝まなければ、ぜったいだめである。これが、しみじみわかればいいのである。
たとえるのはもったいないが、御本尊様は幸福になる機械である。その使用法は、朝五座夜三座の勤行と、年に十名の折伏である。金を作り、健康を作り、人生を心ゆくまで楽しんで死のうではないか。
昭和28年11月22日
創価学会第九回総会午前
中央大学講堂