牧口学説を全世界に

 

 いま、牧口先生の追憶談を聞いていて、二十一歳から四十四の年までいっしょにいたわたくしは、先生のおそばにいたときのようで、胸がいっぱいにこみあげてくる。

 小平君の話しのように、青年を真に愛しておられた。自分も、先生のお宅には、一時、二時までいることがたびたびであった。奥さんは、

『学者の話しは長いから』

といわれて、先に寝てしまわれた。常在寺へ移られたときも、終始、おやじにくっついていた。

 

 先生は、じつに純真な、まじめそのものの人であった。それほどりっぱな人が、死なれたところは牢獄のなかである。

 

田辺寿利は序文で、

『一小学校長たるファーブルは、昆虫研究のため黙々としてその一生を捧げた。学問の国フランスは、かれをフランスの誇りであるとし、親しく文部大臣をして駕(が)を抂(ま)げしめ、フランスの名において、懇篤(こんとく)なる感謝の意を表せしめた。

 一小学校長たる牧口常三郎氏は、あらゆる迫害、あらゆる苦難と戦いつつ、その貴重なる全生涯を費して、ついに画期的なる「創価教育学」を完成した。文化の国日本は、いかなる方法によって、国の誇りなるこの偉大なる教育者を遇せんとするか』

といったが、日本の国家が迎えたものは、牢獄における死である。

 

 わたくしは弟子として、この先生の残された大哲学を、世界に認めさせる。先生は、わが子がかわいいのとどうように、価値論に片寄られた点はあった。わたくしも、天台に流れて大罰を受けたが、あくまで御本尊様が中心であり、価値論は流通分として用いるのである。これがなかったならば、価値論を生かすことはできない。そのため、十年間、世に出さなかったが、今後はぜったいにやる。

 

 利善美の価値体系を、世界的哲学として認めさせるまで、わたくしの代にできなければ、きみらがやっていただきたい。たのみます。

 

昭和28年11月17日

牧口先生十回忌法要

学会本部広間