青年部こそ人材
あの吉田松陰門下には、二柱といわれた傑物があった。すなわち、高杉晋作と、久坂玄瑞であった。
久坂玄瑞は、ひじょうにまじめな、忠実な男で、病弱な松陰先生の代理として、教鞭をとっていた。隣りで教えている久坂に誤りがあると、寝ている松陰先生が、それを訂正するというふうで、ひじょうに愛せられた男である。
一方、高杉晋作は、久坂とはぜんぜん正反対の、しまつにおえない気ままな男で、酒ばかり飲んでいた。
『三千世界のカラスを殺し、主と朝寝がしてみたい』とうそぶく男であった。
しかし、久坂は『高杉こそ逸材だ』と認め、高杉も『久坂こそ人材』と、互いに認め合っていた。
後に、長州軍が蛤御門で敗れたとき、久坂はけがをして、みじめな姿を敵にさらしたくないといって、腹かき切って死んだ。まだ若い青年であった。
高杉も、自分のなすベきことを心得ていた。
いざ鎌倉というとき、かれは江戸から長州に飛んだ。そして、百姓に、くわのかわりに鉄砲を持たせ、奇兵隊を作って幕軍を蹴散らした。かれは女郎のかつぎをかぶり、三味線をひきひき指揮したという。かれもまた、真の傑出した人材であったが、若くして死んだ。この若くして死んでいったふたりが、あの偉大な明治維新の革命を完成したのである。
わが青年部は、高杉であり、久坂である。妙法蓮華経の力をもって立つに、どうして今度の革命ができぬわけがあろうかと信ずる。戸田は一個のバカであるが、みなさんは、わたくし以上と信じてやまない。
昭和28年8月1日
夏季講習会雄弁大会
総本山大石寺