過去世の謗法

 

 きょうは、講演などということでなしに、みんなと膝をつき合わせて、話してみたいと思う。世のなかには、謗法のものと、そうでないものとある。このことは、三世の生命を信じないものには、わからないのだが、われわれは過去に生きてきたのである。

 

 そのときに、謗法があったか、なかったか。過去世に法のないものが折伏に行くと、反対した相手に、すぐ罰が出る。謗法したものは、折伏しても、相手になかなか罰が出ない。しかし、反対され、悪口を言われて、自分の謗法の罪が消えるのである。

 

 次に、入信するときも、謗法のなかったものは、すぐにはいる。謗法のあるものは、その程度によって、入信まで日数がかかる。法力、仏力を示すために、初信の功徳が現われるが、その後が、たいへんなのである。過去に謗法のなかったものは、その調子で、ずんずん良くなる。反対に、謗法のあったものは、それを消すために、いろいろ事件が起こる。このときこそ、たいせつなときなのである。

 

 兄弟抄(御書全集一〇八七ページ)に、『魔競はずは正法と知るべからず、第五の巻に云く「行解既に勤めぬば三障四魔紛然として競い起こる乃至随う可からず之に随えば将(まさ)に人をして悪道に向かわしむ之を畏れば正法を修することを妨ぐ」等云云』とある。

 

 この魔に負けたら、成仏できないのである。四魔のなかで、天子魔というのは、信仰をやめなければならぬようにするのである。このときが、大利益を得るか、否かの、瀬戸ぎわなのである。このことは、ふだんこうして話しているときはわかるが、いざ、自分が問題につき当たったときには、忘れてしまう。

 

 成仏というのは、すごい境涯である。その証拠として、死ぬ前に、ほんとうの歓喜の生活が送れるのである。

 きょう、中野の総会で、ある老婆の体験談を聞いたが、その人は、養老院の迫害のなかで、喜びにみち、確信をもって、題目を唱えている。しかし、惜しむらくは、おそすぎた。

 

 みなさんは、この老婆に比較すれば、はるかに若い。いま幸福をつかまなくて、いつ、そのときがある。ますます信心を強盛にして、永遠の幸福をつかまれんことを。

 

昭和27年3月2日

杉並支部第一回総会

日蓮正宗池袋常在寺