前世の罪障

 

 日蓮大聖人様は、開目抄(御書全集二三三ぺージ)に、『功徳は浅軽なり此等の罪は深重なり』とおおせられているが、よくよく現在のわが身にあてて、このおことばを考えてみる必要がある。

 

 初めに信仰したときには、初信の功徳といって、思いがけない大利益を得ている。ところが、一年でも、三年でも、強盛に信仰をつづけていけば、壁につきあたったような感じで、どうにも身動きのとれなくなることがある。幸福になるために信仰したはずなのに、どうして、こんなに罰ばかりだろうといって、かえって仏を怨むこともある。

 

 ところで、これは、わたくしたちが久遠の昔から、なんどもなんども生まれてきて、謗法をしたり、悪いことをした業報が、八種類もあって、この業報を、つぎつぎと生まれてきては、一つづつ消してゆくはずのところを、強く信仰することによって、この世でぜんぶ消してしまって、最後には、仏の境涯というすばらしい幸福を、この世でつかむのである。

 

 わたくしたちは、ばく大な罪をおかしてきているが、現世にその報いを軽く受けるのは、護法の功徳力によるのであってみれば、かえって、大罪を小罪で消されることを喜ばなければならない。これを転重軽受法門とも申されたのである。たとえば、小指の先をつぶしたものが、小指だけをみていれば、いかにも不幸であるが、この人は腕一本を失う罪報をもって、生まれてきているならば、かえって腕一本のかわりに、小指の先で、罪を消してしまうのは、ありがたいことです。ただ、一般の邪宗教と違うのは、必ずこの世で、すごい幸福をつかむことである。

 

 八難とは、『①あるいは軽易せられ、②あるいは形状醜陋、③衣服足らず、④飲食麤疎、⑤財を求めて利あらず、⑥貧賤の家、⑦および邪見の家に生まれ、⑧あるいは王難にあう』(佐渡御書九六〇ページ)である。

 

 日蓮大聖人様は、『衣服不足わが身なり、飲食麤疎予が身なり、求財不利予が身なり』等とおおせられて、末法における法華経の行者が、いかに多くの艱難と戦って修行しなければならないかを、身をもって、われら凡夫に示されたのである。だから、どんなことがあっても、ひたすら信仰強盛に励むとき、『無上宝珠・不求自得』という、すばらしい境地が、こつぜんと現われてくるのである。

 

昭和23年5月談話