創価学会の使命

 

 いま、つらつら日本国土を見るに、所として華洛の土がありません。

 インフレの波にもてあそばれて生活の惨苦に悩む人々、あすの不安に焦燥を感じて生気をうしないゆく父や母、あるいは家をうしない家を求めて血みどろのもの、また、巷には夜な夜なの強盗さわぎ、己々の職業にあっては、その資材の不足、資金不足、労働力の減少等、絶えざる不安定感は、全国に充満して、どこに真の楽土ありといたしましょう。

 

 この国土を救いたい、この民族に楽土を与えたいと、乞い願わないではおられないのは、わたくしどものみではないでありましょう。自覚ある人である以上、自己一身の保全に汲々たるのみで晏如たりうるものでありません。しかるに今日の現状は、自己一身の保全、または一家の保全すら、見通しをなしえない状態なのであります。

 

 かかる苦悩の世のなかを救うには、仏教の真髄を世に広むる以外に方法はないと、二人の大哲人が、遠くは三千年の昔、近くは七百年の昔に、釈迦と現われ、日蓮大聖人様と現じられて、大声喝破しておられるのであります。

 

 さいわいにも、われわれ学会人は、このみ仏のお教えに随順するものの集まりであります。仏教の真髄とは、日蓮正宗の謂で、日蓮正宗を除いては真の仏教はないということは、文証について、理証について、わたくしの常に説くところであり、諸君が常に現証について、よく体験せられているところであります。

 

 体験は生活であり、その生活に現証を得られた以上、われわれは、日蓮大聖人様に随順して、大聖人様の文底秘沈の妙法を、個人の救いのために、国土、民族、いな、全宇宙の衆生を救わんがために、説かなくてはならないのであります。

 

 われらは、日蓮大聖人様ご図顕の大御本尊様のご威徳、広大なる大聖人様のご慈悲によって、このようなつまらぬ凡身に、仏を感応することができる大果報を喜ぶとともに、人々にも、この喜びをわけて、仏の国土を清めなくてはならない。とうぜんのことでございます。このとうぜんの行為は、すなわち、われわれをして、仏の使いたらしめるものであります。されば、また、仏からつかわされたものとして、慈悲の袋に救いの源泉をつつんで、人々にあたえること、これを折伏というのであります。折伏こそ学会の使命であり、信条であるのであります。

 

 されば、吾人は、仏を感得しうるの大果報人であるとともに、世のなかに大確信を伝えなくてはならないのであります。仏に貧乏があってなるものですか。仏が三世の仏菩薩、諸天善神に守られなくて、なんとしよう。現世は必ず安穏であること疑いないのであります。されば、仏の集まりが学会人であると悟らなくてはならないのであります。迷える人々を、仏のみもと、すなわち、日蓮正宗の御本尊様の御もとに、案内するの集まりであると、知らなくてはなりません。

 

 このためには、けっして、信仰や折伏を、自分の金もうけや都合に利用してはならないのであります。仏罰の恐ろしさを知るならば、そんなことは、けっしてでき得ないので、世にいう悪などということの何千倍の悪であります。学会は名誉のためにも、金もうけのためにも、寄附をもらうためにも、動いてはならないのであります。

 ご利益や大果報は、御本尊様からのみ得られると、確信すべきであります。

 

 もともと、わが創価学会は、故牧口常三郎先生の提唱と実行運動に、その端を発し、いま不肖、非才をもかえりみず、先生なき後の学会の理事長として、先生の意志をつぐものであります。

 先生の後半生、すなわち、創価学会の活動いらいの先生は、多くの悪口、罵詈、誹謗が、あたかも先生の全人生のごとくであって、そのなかに、なんら恐るるなく、日蓮正宗流布のために、寧日なかったのであります。しかも、軍閥主義の横暴と、時の警視庁の小役人の無知蒙昧から、ついに牢死までなされて、み仏に命をささげたお方であります。

 されば、その後をつぐわれわれも、三障四魔紛然としておこるとも恐るるなく、三類の強敵、雲のごとく集まるも、日蓮大聖人様のおことばを信じ、霊鷲山会に参ずるときは、三世常恒の御本尊様に、胸を張ってお目通りのかなうよう、たがいに努めようではありませんか。

 

昭和22年10月19日

創価学会第二回総会午後

東京教育会館