三世の因果

 

 閻魔のそばに行って、『おまえは、生きている間に、こんな悪いことをしたろう』といわれると、亡者は、『わたくしはなにも、そんな悪いことをいたしません』という。閻魔王は、『それ、そこにある浄玻璃の鏡を見よ』という。そうすると、浄玻璃の鏡に、前世の悪事の姿が、そのまま写り出して、うそがいえないということですが、これは地獄のさまを説明した釈迦の低い教えで、いま申しますなら、たとえ話しにすぎないのでございます。

 

 釈迦が、なんのために、こんな教えを説いたのでしょうか。また、事実、浄玻璃の鏡は、ないものでありまし

ょうか。

 

 この娑婆世界においては、わたくしどものこの身、その境遇が、浄破璃の鏡なのでございます。過去世にわたくしどものなした業が、この現世にわれわれの身心に業報として感ずるのでございます。人は、みな、性欲が不同で、種々さまざまのことをやっておりますから、こ世の人は、同一の境涯に生まれるということができないのであります。同じ親に、同じように育てられた兄弟でも、同一な生涯がないのは、この理由であります。

 

 現世、過去世、未来世ということを、信ずることのできぬものが充満していることは、なげかわしいことでありますが、これが生命の実相であり、仏教の根本でございます。

 

 これを十不善行の業報に照らしてみますならば、

 この世で多病である、また短命である人は、『殺』の報いでありまして、この身を浄玻璃の鏡として、過去世の殺を写し出しているのであります。

 貧窮で失財の人は盗みの報いであり、眷属不良で婦が貞実でないという人は邪淫の報い、

 身に誹謗を受け人に誑惑されるのは妄語の報い、

 親類に離れ親友にも捨てられるのは両舌の報い、

 悪声を聞き訴訟をおこすのは悪口の報い、

 人に信じられないで言語が明らかでないのは綺語の報い、

 多欲で足ることを知らずに金がほしい物がほしいというのは食の報い、

 人のためにすきをうかがわれ、あるいは殺されたりするのは瞋りの報い、

 邪見の家に生まれて心諂曲なのは愚癡の報いであります。

 

 また、日蓮大聖人様のおことば(佐渡御書九六〇ページ)によりますれば、『我人を軽しめば還て我が身人に軽易せられん形状端厳をそしれば醜陋の報いを得人の衣服飲食をうばへば必ず餓鬼となる持戒尊貴を笑へば貧賤の家に生ず正法の家をそしれば邪見の家に生ず善戒を笑へば国土の民となり王難に遇う』と。

 

 これ般泥洹経にありとは、大聖人様のお教えでありますが、この業報に、わが身を照らして、過去世をみ、ここに運命の打開を心がく(ける)ベきであります。

 

 されば、自分は丈夫であるとしても、自分の身内に弱いものがいて、多病の業報を感ずるならば、親子ともどもに殺の報いとせねばならない。

 

 このように考えることは、生命は永久であり、永遠の存在であり、この常住の生命が、娑婆世界に、生死、生死と存在することを大前提とせぬかぎり、信ずることのできないことである。

 

 日蓮大聖人様は、このような因果の理法は、『是れは常の因果の定まれる法なり』(佐渡御書九六〇ページ)とおおせになって、とうぜんのこととせられております。しかし、破仏法、破国の邪法のみ盛んな今日、この理法を信ずることすら、日本民族には困難な実状にあります。しかし、釈迦の仏法哲学から、この考え、この思惟を抜きとったら、何物も存在しなくなるのであります。われら、この仏法を信ずるものは、この因果の理法を信じなくてはならないのであります。低いこの因果の理法すら、信じられないで、久遠の生命を、どうして信じえられましょう。

 

 また、地涌の菩薩の自覚は、どうして生まれてまいりましょう。

 

 さりながら、この低い仏法の因果の説法だけをもって仏法とするならば、運命は定まれるものとなして、ただ人生を悪いことをしないようにと、消極的生活におちてしまう。前にのべました因果は、尽未来際にわたって、一生に一つづつを現じて、永劫の生活に現われるのでありまして、いつの日にかこれを清めて、すっぱりした生活に、雄々しく、偉大な希望をもって生きられましょう。

 

 これが解決のため、釈迦の説かれた経文は、法華経でありまして、法華経こそ、人生の最高の生活理念であり、この自然存在の因果の理法をたたき破って、本因本果の妙理を現わしたもので、経文中の最高唯一のものであります。しかし、これとて、単なる理念にすぎないのでありまして、仏のみが、この因果をたたき破って、神通の力を現じたものにすぎません。

 

 末法のわれらと縁のないもので、われわれ凡夫自身が、近因近果の理法をたたき破って、自然の仏身を開覚する法が、ただいまでは必要でありますが、この必要に応じられて、実際生活に、過去世からの運命をたたき破り、よき運命への展開の法をたてられたのは、日蓮大聖人様でいらせられる。

 すなわち、設計図によって飛行機を作ったとおなじように、釈迦の法華経にこたえて、実際生活のなかに、過去の因果を凡夫自身が破って、久遠の昔に立ち返る法を確立せられたのは、日蓮大聖人様でいらせられる。

 

 すなわち、帰依して南無妙法蓮華経と唱えたてまつることが、よりよき運命への転換の方法であります。この方法によって、途中の因果がみな消えさって、久遠の凡夫が出現するのであります。

 

『久遠とははたらかさず・つくろわず・もとの儘と云う義なり』(御義口伝七五九ページ)とおおせの通り、久遠の仏とは、えらい難かしいことばに聞こえますが、久遠は、『もとのままの、なにもりっぱでもない、なんの作用もない』ということで、仏とは命でありますから、『もとのままの命』と悟りますときに、途中の因果がいっさい消えさりまして、因果倶時の蓮華仏が生出するのであります。

 

『善に付け悪につけ法華経をすつるは地獄の業なるベし』(開目抄二三二ぺージ)と大聖人様は、御おおせである。

 たとい久遠劫いらい邪宗にひかされ、かもしだした謗法の大罪、および、つれて生じた因果の罪に、いかにせめられましょうとも、久遠の昔の清浄にかえる唯一の道である大御本尊様を捨てまいらせるということは、地獄の業であります。

 

 久遠劫いらい、種々の悪事のなかでも、謗法の罪はもっとも重く、これがために、十不善行や般泥洹経の八種の大難を強く感ずるのでありますから、ことに強盛に信仰するときには、来世に永劫の時間を費して、一つづつ消してゆくこの大難を、この世の一生のうちに軽く受けて、生命を清浄にしなくてはなりません。そのためには、過去世の業をつぎつぎと感ずるのでありますから、いかなる難がありましょうとも、けっして、けっして、信仰の道に悩んではなりません。いっさいが御本尊様の御おおせと、喜び勇んで、難におもむかなくてはなりません。

 

 御本尊様の功徳については、御年四十三歳の御時、御本尊様ご出現の前に、その功徳の一部を、釈迦の功徳によせて、法華経よりこれをさぐって御おおせには、

『一、世間の楽・涅槃の楽を得、二、貧窮の衆生に福力を与える、三、病の衆生に良楽を与える、四、智なき衆生を智者となす、五、短命の者を長命となす、六、悪心の者を善心となす』と。

 

 御本尊様をいただくかぎり、途中の因果を感ずるときは、この難は久遠を開覚する途中ぞと心えて、いま申した六つの功徳力を堅く信じて、絶えまなき信心を祈るしだいであります。

 

昭和22年10月19日

創価学会第二回総会午前

東京教育会館