罰と利益

 

 罰とか利益とかいうと、神様や仏様の独占のように思う。ことに現今、世間の仏様や神様は、ご利益の競争をやっている。『成田さんにご利益がある。お稲荷さんにご利益がある。仏立講にご利益がある』と。人々は、みな、このご利益に迷う。

 

 この罰とご利益は、はたして神様や仏様の独占物か。そもそも、人間は、罰とご利益のなかに生活しているのである。それは、信仰のあるなしにかかわらないのだ。ただ、利益と罰の大小・深浅・染浄によるだけである。

 

 漁師が魚を釣りに出かける。魚が釣れれば利益で、釣れなかったり、舟をいためたりすれば、これは商売上の罰だ。おでんやをやる。お客がきて、もうかれば、商売の利益だ。客がきて、あばれたり、客がこなくて経費がかさめば、商売上の罰だ。お稲荷さんには、お稲荷さんなりの罰と利益がある。成田さんには、成田さんらしい罰と利益がある。漁師には、漁師なりの罰と利益、おでんやは、おでんやを生活とした罰と利益がある。

 

 注意すべきは、一億円を投じてやる商売の利益と罰は、五百円を資本として商売をする利益や罰より大である。

 一億円の商売のそばで、同じ事業を五百円でやる商人は、つぶれざるをえない。

 

 妙法蓮華経とは、宇宙一切の森羅万象を包含する一大活動であり、人生の最高法則である。この生活のなかにおこる罰と利益は、小神や邪神、邪仏を生活内容としておこる利益、罰とは、はなはだおもむきを異にする。

 

 妙法蓮華経の信仰生活には、いうにいわれぬ、すごい偉大な利益がある。思いもよらぬ幸福がおこる。不信の徒には、またまた身の毛のよだつ罰があるべきである。このことは、法華経二十八品のなかに詳細にのべられ、日蓮大聖人様の御書には、枚挙にいとまなきほどの数多きご教訓がある。

 

 われらが恩師牧口先生は、法のため、人のため、世のために、法難にあわれ、三世の諸仏の称嘆したもうところである。いま、この人を悪口するものは、妙法に悪口するもので、その大罰は恐るべく、その人やあわれむべきである。

 

 わが学会を悪口するものは、妙法使徒の集団を悪口するもので、現罰なくしてなんとしよう。人々よ、よくこれらの人々の今後の生活を見たまえ。また、妙法を純真に信仰するものの受ける、不可思議の一大功徳も、また、刮目して、みな見るべきである。

われわれは、かく宣言するものである。

 

昭和21年11月17日

創価学会第一回総会

東京教育会館