語訳(妙法蓮華経如来寿量品第十六)……見開きページ(660-661㌻)
「第五若仏久住於世薄徳之人不種善根貧窮下賤貪著五欲入於憶想妄見網中の事
御義口伝に云く此の経文は仏・世に久住したまわば薄徳の人は善根を殖ゆ可からず然る間妄見網中と説かれたり、所詮此の薄徳とは在世に漏れたる衆生今滅後日本国に生れたり、所謂念仏禅真言等の謗法なり、不種善根とは善根は題目なり不種とは未だ持たざる者なり」
【貧窮下賤】天台では、貧窮下賤であるから、二善を生ぜず利益がなく、見思を断ぜず三悪を断ぜず罰があると説く。
文底の仏法では、御本尊を信ぜず折伏を行じないゆえに、貧しくいやしい生活におちるということである。
【五欲に貪著し】五欲に執着すること。五欲とは
①色欲(眼に対する)
②声欲(耳に対する)
③香欲(鼻に対する)
④味欲(舌に対する)
⑤触欲(身に対する)である。
すなわち、五根が五塵の境に対しておこす欲情である。五根には、眼、耳、鼻、舌、身である。五塵とは、色、声、香、味、触の五物質である。
【憶想妄見の網の中に入りなん】小さい自己を主として物質を考え、いろいろな思想、まちがった見解の迷路の中におちこんでしまうであろう。天台では、憶想は見惑、五欲は思惑という。
御義口伝(七五四㌻)にいわく、
「憶想とは捨閉閣抛第三の劣等此くの如きの憶想なり、妄とは権教妄語の経教なり見は邪見なり、法華最第一の一を第三と見るが邪見なり、網中とは謗法不信の家なり、今日蓮等の類い南無妙法蓮華経と唱え奉る者はかかる妄見の経・網中の家を離れたる者なり云云」
【憍恣を起して】憍はおごる、恣はほしいままとよみ、法をきいても、バカにして、わがままの心をおこすことである。
【厭怠を懐き】仏道修行がイヤになって、なまけること。
【難遭の想】あいがたい仏に対して、あいたいと願う切実な想い。
【恭敬の心】仏、御本尊に対し、心からうやまう精神。
【比丘】比丘とは梵語である。男子の出家受戒したものの通称である。
【諸仏の出世に値遇すベきこと難し】天台では、三仏(釈迦・多宝・十方分身の諸仏)にあうことはむずかしいと説く。文底の仏法では、大御本尊にお目にかかることはむずかしいということ。
【或は仏を見るあり、或は見ざる者あり】天台では仏を見るとは、仏が常に霊鷲山にいるのを見るのだと説く。
文底の仏法では、末法の福運のない人々は、なかなか御本尊にお会いできないということを示している。
【心に恋慕を懐き仏を渇仰して】御本尊を恋いしたう心をもち、日でりに水を欲するように、日蓮大聖人にお会いしたいと思うこと。
【譬如良医】「譬えば良医の……如し」と読む。法華経七譬の中の「良医治子の譬え」である。釈迦仏法の中では、もっとも重要な譬えである。
文上では、良医とは久遠実成の釈尊である。天台では、この譬えの中に、過去の益物、現在の応化、未来の応化などを説いている。
文底の仏法では、良医とは、久遠元初の自受用身、父とは末法の御本仏日蓮大聖人、使とは日蓮正宗代々の御法主上人猊下と立てるのである。
【智慧聡達】文上の天台では、智慧とは権実の二智で深く二諦を知る、聡達とは五眼をもって機を見て頓漸差わないことだという。
文底の仏法では、大御本尊の広大無辺なる智慧を、ほめたたえるのである。智慧がすぐれておられるとは、南無妙法蓮華経に通達なされていることである。
【明らかに方薬に練し】文上では、良医が病人に適した薬を作るように、仏も一切の機根に応じた仏法をもって衆生を救う、その経の文理はまことに甚深である。天台では、十二部経の文理が甚だ深いことをいうと説く。
文底の仏法では、南無妙法蓮華経は一法であるが御本尊は末法の衆生のあらゆる悩みを解決する力を、そなえておられることをいうのである。
【善く衆病を治す】天台では、四悉檀によって衆生の病を治すと説く。
文底の仏法では、御本尊は体の悩み、心の悩み、一家の悩み、一国の悩み、あらゆる悩みを解決して下さるのである。
(参考)
四悉檀(ししつだん)とは、仏教において、仏が衆生を悟りに導くために示した教えを4種類に整理したもの。
四悉檀の4種類は次のとおり。
・世界悉檀(せかいしつだん):人々の願いや欲求に応じて法を説くこと
・為人悉檀(いにんしつだん):機根などが異なる人それぞれに応じて法を説いて教え導くこと
・対治悉檀(たいじしつだん):貪り・瞋り・癡かさなどの煩悩を対治するために、それに応じた法を説くこと
・第一義悉檀(だいいちぎしつだん):仏が覚った真理を直ちに説いて衆生を覚らせること
【其の人】良医、すなわち仏。
【諸の子息多し】たくさんの子供、すなわち多くの仏子をいう。
【若しは十・二十・乃至百数なり】天台では、若しは十は声聞、二十は縁覚、百数は菩薩などと説く。
文底の仏法では、すべて末法の衆生をいうのである。
【事の縁有るを以て遠く余国に至りぬ】天台では、過去の応化の中の現滅を譬えると説く。
文底の仏法では、御本仏が末法にいたるまでの間、わけがあって法性の淵底におられたのである。
【他の毒薬を飲む】天台では、衆生が仏の滅後に三界邪師の法に楽著すと説く。文底の仏法では、日蓮正宗以外の宗教はすべて他の毒薬すなわち邪宗教であり、飲むとは、その邪宗邪義を誤って信じたことをいう。
御義口伝(七五四㌻)にいわく、
「第六飲他毒薬薬発悶乱宛転于地の事
御義口伝に云く他とは念仏・禅・真言の謗法の比丘なり、毒薬とは権教方便なり法華の良薬に非ず故に悶乱するなり悶とはいきたゆるなり、寿量品の命なきが故に悶乱するな