語訳(妙法蓮華経如来寿量品第十六)……見開きページ(654-655㌻)
の万徳を備えている理想的境涯である。ゆえに一般に成仏して死ぬことを涅槃というのである。ここは、その死ということである。
小乗では単に煩悩を断じ、灰身滅智した境涯を涅槃とし有余・無余の二種の涅槃を説く。しかし日蓮大聖人の下種仏法では、生死即涅槃と説き明かされている。
【分別】ものごとを、よくわきまえ知ることである。思慮分別などという。弁別などと同じ意味である。仏の出現や死ということは、皆方便をもって、わからせたのだということである。日蓮大聖人は死について「生死の理を顕さんがために、死を現ずる」とおっしゃっている。
【来至】やって来ること。
【仏眼】五眼の中の一つである。五眼とは、①肉眼②天眼③慧眼④法眼⑤仏眼である。仏眼とは、仏の備えているもので、宇宙の実態をすベて知り、真実中道に安住している智慧の眼である。仏は他の四眼も、ともに、備えており、自由自在に用いるのである。文底の仏法では、御本仏の智慧の眼である。さらに、残りの四眼を一往説明すれば、
①肉眼とは、肉体が持っている眼である。
②天眼とは、天界の人が持っている眼で、遠い所でも、近い所でも、昼でも、夜でも、内でも、外でも、見ることができる。人が訓練を積めば、このような眼を持つことができる。
③慧眼とは、二乗の人が、空無相の理を達見する智慧の眼である。
④法眼とは、菩薩が色々な法に達して誤りなく、一切衆生を救うために法門を照了する智慧の眼である。
【信等の諸根】信根などの五根ということである。五根というのは、釈迦仏法で菩薩行を励むときに、とくに大事な条件として、五大別したものである。修行の根本になるから、根という。すなわち①信根②精進根③念根④定根⑤慧根である。
①信根とは、仏の説くことを堅く信じて、決して疑わぬことである。
②精進根とは、信心や修行や教学において、学んだことに心を打ち込み、よく考え、熱心に実行していくことである。
③念根とは、信じてえたことを忘れず、邪義が入りこまぬように、深く心を使うことである。
④定根とは、自分が信じた正法を最後まで信じ切ると決定し、絶対に魔に負けないことである。
⑤慧根とは、このようにして、だんだん信解が進んでくると、智慧の力が進んでくるのである。すべて頭が良くなるのである。
このような五根は、文底の仏法においても、御本尊を信ずる上に、必要なことである。
【利鈍】仏は人々の五根が、立派であるか、まずいか、そのていどを明らかに見定めるというのである。
天台では、慧根を了因、余根を縁因とし、この二善根に利鈍あり、通じて鈍漸の機縁を摂する、小乗の根は鈍で大乗の根は利、二乗の根は利で人天の根は鈍だなどといっている。
文底の仏法では、御本尊は、われわれの信心の利鈍をごらんになって、罰と利益をもって正しい信心に導かれるのである。
【度すべき所に随って】度すとは、化導して救うことである。その人の状態に応じて化導するということ。
【処処に】色々な場所の、色々な時に。すなわち過去に出現した国土、十方の国土をいう。
【名字の不同】色々違った仏の名前ということである。天台では、仏の形が異なるから名も同じではないといっている。
文上の釈迦仏法では、久遠実成の仏が、大通智勝仏とか然燈仏とか薬師如来とか、色々名前を変えてあらわれ、人々を救ったという。
文底の仏法では、久遠元初の自受用身が、上行菩薩とか、日蓮大聖人とか御本尊として再誕し、久遠実成の釈尊とか、色々名前を変えて垂迹して出現されたことをいう。
【年紀の大小】仏がその世で、教化にあたられる年月には、長い短いがあるということである。天台では二仏の寿に量と無量とがあるといっている。インドの釈尊は在世の説法が五十年で、正法時代が一千年、像法時代が一千年である。過去の迦葉仏は、寿命が二万歳、弥勒仏は八万歳であったという。
日蓮大聖人は御在世中は、三十二歳の立宗から六十一歳の御入滅まで、三十年間、南無妙法蓮華経を説かれ、その功徳は末法万年はおろか尽未来際までも流れるのである。
【種種の方便を以て微妙の法を説いて】文上の天台では、「種々の方便を以て」とは、小身短命の仏が漸教を説くことで「微妙の法を説いて」とは、大身長寿の仏が頓教を説くことだ、などといっている。
しかし、文底の仏法では、ただ南無妙法蓮華経の微妙なる一法を説くのみで、方便の教は説かない。しいていえば、罰と利益の二つの方便を用いられるのである。
【能く衆生をして歓喜の心を発さしめき】文底の仏法では、われわれが御本尊を拝んで、歓喜していることをいうのである。
【如来……を見ては】仏眼をもって、照らすことだという。
【小法を楽える】低い仏法に執着することである。天台では、往昔、現在、修行、果門などに約して説いている。たとえば、釈尊の久遠実成を聞くことを好まず、始成正覚のインドの釈尊の説法を好むものなどがそうである。
文底の仏法では、日蓮正宗以外の邪宗教をやっているもの