語訳 (妙法蓮華経方便品第二)……各見開きページ毎(644-645㌻)

 

れて信心をする時のことをいう。


御義口伝(七一四㌻)にいわく、
第二諸仏智慧甚深無量其智慧門の事


 文句の三に云く先ず実を歎じ次に権を歎ず、実とは諸仏の智慧なり三種の化他の権実に非ず故に諸仏と云う自行の実を顕す故に智慧と言う、此の智慧の体即ち一心の三智なり、甚深無量とは即ち称歎の辞なり仏の実智の竪に如理の底に徹することを明す故に甚深と言う、横に法界の辺を窮む故に無量と言う無量甚深にして竪に高く横に広し、譬えば根深ければ則ち條茂く源遠ければ則ち流長きが如し実智既に然り権智例して爾り云云、其智慧門は即ち是れ権智を歎ずるなり蓋し是れ自行の道前の方便進趣の力有り故に名けて門と為す、門より入つて道中に到る道中を実と称し道前を権と謂うなり、難解難入とは権を歎ずるの辞なり不謀にして了し無方の大用あり、七種の方便測度すること能わず十住に始めて解す十地を入と為す初と後とを挙ぐ中間の難示難悟は知る可し、而るに別して声聞縁覚の所不能知を挙ぐることは執重きが故に別して之を破するのみ、記の三に云く竪高横広とは中に於て法譬合あり此れを以て後を例す、今実を釈するに既に周く横竪を窮めたり下に権を釈するに理深極なるベし、下に当に権を釈すべし予め其の相を述す故に云云と註す其智慧門とは其とは乃ち前の実果の因智を指す若し智慧即門ならば門は是れ権なり若し智慧の門ならば智即ち果なり、蓋し是等とは此の中に須く十地を以て道前と為し妙覚を道中と為し証後を道後と為すベし、故に知んぬ文の意は因の位に在りと。


 御義口伝に云く此の本末の意分明なり、中に竪に高く横に広しとは竪は本門なり横は迹門なり、根とは草木なり草木は上へ登る此れは迹門の意なり、源とは本門なり源は水なり水は下へくだる此れは本門の意なり、條茂とは迹門十四品なり流長とは本門十四品なり智慧とは一心の三智なり門とは此の智慧に入る処の能入の門なり三智の体とは南無妙法蓮華経なり門とは信心の事なり、爰を以て第二の巻に以信得入と云う入と門とは之れ同じきなり、今日蓮等の類い南無妙法蓮華経と唱え奉るを智慧とは云うなり、譬喩品に云く「唯有一門」と門に於て有門・空門・亦有亦空門・非有非空門あるなり、有門は生なり空門は死なり亦有亦空門は生死一念なり非有非空門は生に非ず死に非ず有門は題目の文字なり空門は此の五字に万法を具足して一方にとどこうらざる義なり、亦有亦空門は五字に具足する本迹なり非有非空門は一部の意なり、此の内証は法華已前の二乗の智慧の及ばざる所なり、文句の三に云く「七種の方便測度すること能わず」と、今日蓮等の類いは此の智慧に得入するなり、仍て偈頌に除諸菩薩衆信力堅固者と云うは我等行者の事を説くなり云云。


【難解難入】天台では、釈尊の方便の教えは、人の機根に合わせて説かねばならぬから、めんどうで普通の人にはわかりがたく入りがたいという。大聖人の仏法には、方便の教えはないから、文底より読めば、折伏されても正宗の正しさを知り邪宗を捨てて入信することはむずかしいという意味。


【声聞】十界の一つ。二乗の一種。理論をつかむことに喜びを感じ、自分の幸福のみを考えるような境涯の人。釈迦仏法では舎利弗や目連などが声聞である。現在では学者階級などがそうである。


【辟支仏】縁覚のこと。十界の一つ。二乗の一種。何かの縁にふれて悟りを感じ、自分だけ楽しむような境涯の人。現在では一芸に秀でた名人じょうずや大家などが、そうである。


【知ること能わざる所なり】知ることができないものである。


【所以は何ん】そのわけは、どうかといえば。
 

【仏】文上では釈尊、文底では日蓮大聖人。
 

【百千万億無数の諸仏に親近し】百千万億無数とは、百に千を掛け万を掛け億(十万のこと)を掛け、無数を掛けた大きな数、文上では、釈尊はそれだけ多くの仏のひざもとで修行したというが、文底では、御本尊は、そのような修行は全然なさらず、もともと無始以来御本仏であらせられる。


【無量の道法】文上では、覚りを得るために必要な一切の修行をいうのであり、無量とは横に量りがたいほど広く大きいことをいう。しかし、文底の仏法からみれば、ただ御本尊を信じて拝み、折伏を行ずることである。


【勇猛精進】勇ましく元気に励むことである。文上の釈迦仏法では歴劫修行といって、永遠に近いほども長く色々の修行を積んではじめて仏になれるのである。しかし、文底の大聖人の仏法では、ただたゆまず御本尊に南無妙法蓮華経と唱えて折伏に励むことである。


【名称普く聞こえたまえり】名前が世間にひびきわたったというのである。文上では釈尊の名前がとどろいたのである。文底から読めば、末法の御本仏日蓮大聖人の御名、また広宣流布一筋に生きる学会の名前が全世界にひびきわたったのである。


【甚深未曾有の法】甚深とは永遠の長きにわたって縦に深いのである。未曾有とは、まだ昔から誰も説かなかったということである。非常に深い哲理をもって、誰も説きえなかった法とは、文底からいえば日蓮大聖人の仏法、三大秘法である。


【成就】日蓮大聖人が三大秘法の建立を完成されたこと。中でも戒壇の大御本尊を建立あそばされたことが、成就である。


【宜しきに随って説きたもう所】文上の釈迦仏法では、聞く人の機根に応じて、それぞれ、もっとも適切な教えを与えられたというのである。しかし、文底の大聖人の仏法では、

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どんな人に対しても最高の南無妙法蓮華経のみをズバリと説くのである。


【意趣解し難し】仏法の教えは、なかなかわかりにくい。文上では釈尊の色んな方便の使いわけ方がわかりにくいというのである。しかし文底の仏法では、大聖人が「これを知れるは日蓮一人なり」といわれたごとく、邪宗は人を不幸におとすから止めよという大聖人の大慈悲と大哲学が、邪宗の連中にはわからないのである。


【吾成仏してより已来】自分が仏になってから今まで、迹門文上では、釈尊は三千年前にインドではじめて仏になったと説いている。文底の仏法では、日蓮大聖人が久遠元初という無始の昔に御本仏であったときから今まで、となる。


【種種の因縁】いろいろな因縁話、文上では、釈尊は四十二年間にいろいろ方便の因縁話を説いた。しかし文底では、大聖人は方便教を全然説かないで、ただ南無妙法蓮華経のみ説かれた。


【種種の譬喩】色々な、たとえ話。文上では、釈尊は色々な、芭蕉とか、水泡とか、鏡とか、幻などの小乗・大乗のたとえ話をもって、頭の悪い釈迦仏法の人達に教えた。しかし文底の仏法では、方便のたとえ話は説かれない。しいていえば、御書に仰せの御指導のごとく、独一本門の立ち場における譬喩である。


【広く言教を演べ】ただ一法から広く多くの義を出して説法する。文上では一法とは文上の法華経二十八品である。文底の仏法では、一法とは南無妙法蓮華経である。


【無数の方便】たくさんの方便。文上では方便とは七方便のことだという。七種の方便とは、蔵教の声聞、縁覚、菩薩と、通教の声聞、縁覚、菩薩と、別教の菩薩をいう。しかし、文底の仏法では、このような方便は少しも必要でない。

 

【衆生を引導して】教えを説いて衆生を幸福な生活にみちびく。文上では釈尊は七方便にいろいろな方便権教を説いて導くのである。しかし文底の仏法では、ただ南無妙法蓮華経の一法を説いて成仏の直道に導くのである。


【諸の著を離れしむ】文上では、釈尊はいろいろ多くの執着を離れさせたのである。しかし、文底の仏法では、いろいろ多くの執着を明らかに見させるのであって、離れさせるのではない。
御義口伝(七七三㌻)にいわく、「離の字をば明とよむなり」と。


【如来】仏のこと、文上では、インドで初めて成仏したという迹門の釈尊。文底の仏法では、末法の御本仏日蓮大聖人のことである。


【方便】釈迦仏法では、方法の意味。または目的を達するための手段の意味。法用方便、能通方便、秘妙方便の三方便が説かれているが、法華経の方便は秘妙方便である。文上迹門の仏には、そのようなものがある。しかし、文底の仏法では必要のないことである。


【知見波羅蜜】知見とは三智五眼をもって諸法の事理性相などを徹見すること、波羅蜜は度と訳し、煩悩の中を通りすぎて覚りを得る道をいう。知見波羅蜜が備わっているというのは、仏智を成就せられたということである。文上の仏法ではこのような権実の二智をいうが、しかし文底の仏法には必要のないことである。


【皆已に具足せり】文上では、権実の二智が、すべて備わっていることをいう。文底の仏法では、御本尊に題目を唱えるだけで、権迹本の仏の因行果徳がすベて備わることをいう。


【広大深遠】広大とは横に広く大きく、全宇宙にわたること。深遠とは、縦に深く遠く、永遠にわたること。


【無量】四無量心のこと、楽しみを与える慈心、苦しみを除く悲心、歓喜の心を起こさせる喜心、愛憎を除く、捨心の四心である。この四心で無量の衆生に、無量の功徳を与えるので四無量心といい、仏はいつもこの心をもっている。しかし、文底の仏法には必要がない。御本尊には権迹本の仏の因行果徳の二法がすベて備わっているからである。以下も同じ。


【無礙】四無礙のこと。仏が色々の法の自由自在に説かれる智慧の力、法無礙、善無礙、言辞無礙、楽説無礙の四つである。


【力】仏の具している十力のこと。
十力とは、
 一、知是処非処智力
 二、知三世業報智力
 三、知処禅解脱三昧智力
 四、知諸根勝劣智力
 五、知種々解智力
 六、知種々界智力
 七、知一切至処道智力
 八、知天眼無礙智力
 九、知宿命無漏智力
 十、知永断習気智力
 

【無所畏】仏が自由自在に教えを説かれて畏るるところがないこと。一切智無所畏、漏尽無所畏、説障道無所畏、説尽苦道無所畏の四無所畏がある。


【禅定】心が一つに定まって、散乱しない状態をいう。われわれが御本尊を一心に拝んでいる境地は最高の禅定である。


【解脱】いっさいの惑いや、いっさいの苦しみを離れた状態。成仏したときの力強い境涯である。


【深く無際に入り】縦に深いことをいっている。


【一切未曾有の法を成就せり】いまだかつてなかった法を得たのである。横に広大なことをいう。


【種種に分別し】教えを聞く者の力に応じて、適当に説き分