以常見我故。而生橋恣心。放逸著五欲 堕於悪道中。我常知衆生。行道不行道。随応所可度。為説種種法。

 

【常に我を見るを以っての故に而も憍恣の心を生じ放逸にして五欲に著し悪道の中に堕ちなん我常に衆生の道を行じ道を行ぜざるを知って応に度すベき所に随って為に種種の法を説く】

 

(文上の読み方)

 通解(六二六ページ上段)にあります。

 

(文底の読み方)

 この前の長行のときに、仏久しく世に住するならば……とありましたように、仏がもしこの世の中にずーっといるならば、われわれ衆生というものは、憍恣の心や放逸の心を起こして、五欲に貪著して、満足な修行をしないようになります。そして悪道におちてしまうということであります。

 

 五欲というのは、目の楽しみ、耳の楽しみ、鼻の欲、舌の欲、皮膚の欲、この五つであります。五欲に著しますと、ついそこから悪道におちるというのであります。

 五欲に著しなければいいのであって、五欲を楽しめばよいのであります。

 

 次は御本尊の偉大な御力を、説いているのであります。行道というのは、御本尊を信じまいらせて折伏すること、不行道とはやらないことであります。御本尊はそれを知ろしめして、その人の態度にしたがって、どうして救おうかと考えられて、罰と利益とを出して下さるというのであります。

 

 信心しないからといって憎みあそばしてはいないので、それに応じて救ってやるのだ、行道、不行道は、きちんと仏はわかっておいでだというのであります。

 

 よく質問会などで「信心したのはいつですか」と聞くと「もう四年もしている。それで病気がまだはっきりなおらない」という。それはインチキな信心であります。不行道であります。御本尊の功徳に、そんなバカな話は断じてありません。

 

 毎自作是念。以何令衆生。得入無上道。速成就仏身。

 

【毎に自ら是の念を作さく何を以ってか衆生をして無上道に入り速かに仏身を成就することを得せしめんと】

 

(文上の読み方)

 通解(六二六ページ上段)にあります。

 

(文底の読み方)

 毎自作是念、これは御本尊が、常にどうしたならば、衆生をして ーー 仏法に無上道と有上道とあるのであります。無上道というのは、この上もない道、それは南無妙法蓮華経であります。仏法の最高峰をいうのであります ーー 無上道を得さしめて、すみやかに仏身を成就させられようか、仏の境涯をどうしたならば、つかませてやれるだろうかといって、念じておられるというのであります。これが、自我偈の最後のくくりであります。

 

 南無妙法蓮華経の力によって、みんなを仏の身にしてやりたいものだと、御本尊は常に念じておられるのであります。

 一生懸命に題目を唱え折伏を行じ、信心をとげて、すみやかに仏身を成就しようではありませんか。

 

 

 三妙合論について

 

 寿量品に三妙合論の説があります。三妙とは本因の妙、本果の妙、本国土の妙であります。

 

 文上において、寿量品の上からみますと「我実成仏已来」が本果の妙であります。しかも、仏は浄土のみにいらして、娑婆世界にはおられないというのが、法華経以前の学説であります。

 

 しかし、寿量品には「娑婆世界」という本国土妙が説かれております。それは仏が娑婆世界に、凡夫と共に、菩薩と共に、また声聞・縁覚と共に、あるいは畜生・餓鬼などと共に、みないっしょに十界おのおの同居しております。この不思議さを本国土の

妙といいます。

 

 仏の本国というものは娑婆世界であるというのであります。

 

 しかもその仏の境涯を得るのは本因があり、それが「我本行菩薩道」というところであります。

 

「我実成仏已来」これは仏の本体であります。すなわち、文底よりこれを論じますと、御本尊に当たります。これを文上においては「五百千万億、那由陀阿僧祇の三千大千世界があって、これをすり潰して粉として」というところが御本尊の境智をおっしゃっているのであります。

 

 すなわち、文底からこれを論じますと、大宇宙即御本尊であり、南無妙法蓮華経の生命というものは「我実成仏已来」我れ仏を得てよりこのかた、仏になってよりこのかた大宇宙と共にある、と読むべきが文底であります。

 

 しかも娑婆国土以外には、ほんとうの仏はいらっしゃらないのであります。娑婆に仏がおらなかったならば、そんな仏は迹仏であり、権仏であります。娑婆世界におられる仏こそ、真実の仏であります。

 

 その仏になるには、みな菩薩の道を行じたのであります。「我本行菩薩道」であります。しかし、これを文底より論じて行くところに、本果妙の釈尊の仏法と、本因妙の教主釈尊との相違が、はっきりしてくるのであります。

 

 というのは、文上から、これをこのままながめても「我実成仏已来」ということは、すなわち御本尊の本体であります。

 ですから、この御本尊の本体を本体として、釈尊が姿を現じております。ですから、本果の世界を現わしているのであります。

 ところが日蓮大聖人になりますと、仏自体のりっぱな姿を現じられないのです。すなわち、仏になる本因を論じ、仏になる本因を行ずるのであります。ですから本因妙の仏という以外にないのであります。

 

 大聖人が生まれながらにして御本尊の体を現わし、御本尊の行を行じられたならば、それは菩薩道でなくなるのであります。

 

 菩薩道というのは、菩提薩埵と申しまして、仏になる道を行ずるのをいうのであります。御書のどこを拝読いたしましても、われ仏になって、霊山でおまえらを救ってやるとか、これだけの難を忍んだので、私はそのうちに仏になれるだろうと書いてはいないのであります。

 

 日蓮大聖人の御行動は、本地内証のにおいては、仏でいらせられても、行ずるところは、菩薩であります。その菩薩を一括して、すなわち文上でいえば、五十二段の本因初住の文底にあるところの南無妙法蓮華経という、仏の本体を直接信じて、われわれは仏になるのでありますから、大聖人の仏法は本因の妙なのであります。

 

 ゆえに大聖人を本因の仏と称し、寿量文上の仏をもって本果の仏と称し、ここに本果妙と本因妙の区別があるのであります。