仏語実不虚。如医善方便。為治狂子故。実在而言死。無能説虚妄。

 

【仏語は実にして虚しからず医の善き方便をもって狂子を治せんが為の故に実には在れども而も死すと言うに能く虚妄を説くもの無きが如く】

 

(文上の読み方)

 通解(六二五ページ下段)にあります。

 

(文底の読み方)

 仏は決してウソをつかない、日蓮大聖人の仰せには断じてウソはないのであります。ただ方便を用いることがあるというのは、良医の譬えのように、狂った子供を治さんがために「おとうさんは死んだ」といったように、この世の中に死というものがあるのは方便なのであります。じつにはほんとうの生命というものは、なくならないのであります。じつの滅度ではないのであります。けっしてこの仏が死んだということは、ウソをついているのではない、秘妙方便だといっているところであります。

 

(別釈)

 中国に史記という本を書いた司馬遷という人がおります。無実の罪で身を斬られたのであります。これは有名な人で、漢文をやる人は、この史記を読まなければ漢文をやったことにならないのであります。

 

 その史記の中に、伯夷・叔斉という人がでております。殷の紂王を周の武王が滅ぼしたときに、この戦争の総大将が太公望で、とても偉い人でありました。

 魚を釣りに行くのに、針を伸ばしてしまって、魚がひっかからないようにして釣っている、どうしてかと聞かれて「魚がくいつくとめんどうだ」といったというのであります。

 

 そういうおもしろい男が、参謀になったときに、伯夷・叔斉が「革命というものはいかん」といって諌め、ついに周の武王が天下を取ったときに「周の粟は食まず」といって、首陽山という山へ上って、うえ死にしております。

 

 ところが、あるどろぼうの親分が、罪のない者を三千人殺しております。それで一生涯、酒と肉には事欠かずに死んだというのであります。「この原理は如何?」と司馬遷は書いております。

 

 伯夷・叔斉は聖人であるが餓死しているのに、どろぼうの親分は罪のない者を三千人も殺して、酒と肉にあきるほど、一生楽しんで死んだのであります。

 

 この原理は、そういう偉い人でもわからなかったのであります。それは、漢学や儒教ではわかりません。それは仏法で説く前世の問題であります。

 

 この世で、われわれはたいして良いことなんかできるわけはないのでありますから、題目を唱えていきたいと思うのであります。題目だけは来世にも持ってゆけますが、金は持ってゆけません。折伏した、そのてがらは持ってゆけますが、それが来世への福運となって現われてくるのであります。

 

 我亦為世父。救諸苦患者。為凡夫顚倒。実在而言滅

 

【我も亦為れ世の父諸の苦患を救う者なり凡夫の顚倒するを為って実には在れども而も滅すと言う】

 

(文上の読み方)

 通解(六二五ページ下段)にあります。

 

(文底の読み方)

 日蓮大聖人は、このお言葉を非常に強くお用いになっております。我亦為世父、大聖人は世の父であります。もろもろの苦患を救うものであります。これは大御本尊のお言葉と取っていいのであります。我とは大聖人、御本尊のことであります。諸の苦患を救うものであると、約束せられていますから、自我偈を読むときには、このお約束を強く感じなければならないのであります。

 

 御本尊は、いろいろな憂いや苦しみのある者をば、かならず救ってくれるのだと信じきってさしつかえないのであります。

 

 次の句は生命論であります。

 こういう厳然たる約束があるにもかかわらず、このことを、仏法上から見ないで、世の中のことから御本尊を見て疑う者は、世の中を引っくり返して考えている者であります。こういう者は、生命観においても、永遠の生命であるにもかかわらず、ただ滅するのだと見ているというのであります。ところが、大聖人の御書を拝しますと、こういうややっこしいことは、おっしゃっておりません。大聖人の仏法が徹底しているのは、そこであります。「生死の理を顕わさんがために、あなたの御主人は亡くなったのだ」とおっしゃっております。