【是の諸の罪の衆生は 悪業の因縁を以って阿僧祇劫を過ぐれども三宝の名を聞かず】
(文上の読み方)
通解(六二五ページ上段)にあります。
(文底の読み方)
この前に、憂怖諸苦悩という言葉があります。憂いとか、悲しみとか、苦しみとか、悩みがある衆生というものは、阿僧祇劫という長い間をすぎても、真の三宝の名前を聞かないで、誤まれる邪宗の三宝を信じております。だから、この世へ生まれてきて、あらゆる苦しみを、しなければならないというのであります。
今の日本の民衆というものは、みな憂怖諸苦悩に満ちております。生きているのが嬉しい、生きているのが楽しいという者はおりません。悲しんだり、あるいは憂えたり、あるいは苦しんだり、悩んだり、中には怒ったりしている者もあります。
これはみな、真の三宝の名を聞かないからだという結論であります。
その三宝というのはなんでありましょうか。
それは仏・法・僧と申しまして、仏の宝・法の宝・僧の宝をいうのであります。邪宗教と当日蓮正宗との相違は、三宝の立て方によって分かれているのであります。
邪宗日蓮宗では、仏の宝を五百塵点劫久遠実成の釈迦如来としております。次は、法の宝を南無妙法蓮華経、日蓮大聖人は僧の宝と邪宗教では立てるのであります。
しかし、この邪宗の立て方は、人法一箇の仏法定理に反しているでたらめな立て方であります。また文上の釈尊は四味三教という方便教をもつ仏で、南無妙法蓮華経とはいえない。
三宝を間違えることはこわいことであり「日蓮を用いぬるともあしくうやまはば国亡ぶべし」の御金言のごとく、大罰を招くのであります。
しからば、いかなる三宝の立て方がいいのでしょうか。いうまでもなく、当日蓮正宗では、仏の宝は日蓮大聖人、法の宝は南無妙法蓮華経、僧の宝は御開山日興上人と立てております。だから、憂怖諸苦悩がないわけになるのであります。
これが、各邪宗教と日蓮正宗の相違であります。
諸有修功徳。柔和質直者。則皆見我身。在此而説法。或時為此衆。説仏寿無量。久乃見仏者。為説仏難値。我智力如是。
【諸の有ゆる功徳を修し柔和質直なる者は則ち皆我が身此に在って法を説くと見る或時は此の衆の為に仏寿無量なりと説く久しくあって乃し仏を見奉る者は為に仏には値い難しと説く我が智力是の如し】
(文上の読み方)
通解(六二五ページ下段)にあります。
(文底の読み方)
ここは三宝を拝んだ者の功徳を説いています。三宝とは、すなわち大御本尊に全部含まれるのであります。あらゆる功徳を修するということは、御本尊を朝五座・晩三座ときちんと拝んで、折伏することであります。
次に、柔和ということは、御本尊に対する信心がすなおということであります。質直というのは、正直ということであります。正直にも二色ありまして、世法の正直と、仏法の正直とあるのであります。仏法上の正直ということは、大乗に柔順なことをもって正直というのであります。御本尊にむかって、柔和で、正直で、他の経文を絶対にやらないのであります。
そういう境涯になれば、御本尊が、事実この世にあって、常に法を説いているということがわかり、その功徳は絶大であります。そのときには、仏の生命、大聖人の生命は無量であります。われわれの生命も永遠であります。このことが悟られてくるのであります。
しかるに、われわれは、この仏には値い難いものであります。その値い難い仏に値えたということが、しみじみとわかってくるときに、歓喜がわいてくるのであります。いつだって拝めるなどといっていたらだめなのであります。この次の生命において、お会いできるかどうかわからないのであります。よく、お会いできたという喜びに、燃え立たなければいけないと思うのであります。
慧光照無量。寿命無数劫。久修業所得。汝等有智者。勿於此生疑。当断令永尽。
【慧光照らすこと無量にして寿命無数劫なり久しく業を修して得る所なり汝等智有らん者此に於いて疑を生ずること勿れ当に断じて永く尽きしむベし】
(文上の読み方)
通解(六二五ぺージ下段)にあります。
(文底の読み方)
慧光ということは、大御本尊の功徳のことで、その功徳は、無量であります。縦には永遠に、横には宇宙法界にわたって大御本尊の功徳は響きわたっているのであります。
寿命無数劫、その仏の生命は永遠であります。
久修業所得、久しく業を修して得たところであります。
これは長行の「我本行菩薩道所成寿命」に当たるところであります。すなわち題目を唱えたことであります。慧光照無量とは本果になります。久修業所得ということは本因になります。
釈尊の仏法では、久遠実成の釈迦如来の我本行菩薩道といって、修業の時期があったわけであります。ところが、これが文底仏法になると、久しく業を修して得たところではない。
久遠元初の当初において、大聖人即久遠元初の自受用報身如来が、我が身地水火風空なりと知ろしめして即座に悟を開き給うとあります。業を修しておられたとは、南無妙法蓮華経と唱えただけが因となってしまっております。智あらん者は、疑いを起こしてはいかん、長くその疑いを断ち、そして題目を唱えなさいというのであります。