於阿僧祇劫。常在霊鷲山。及余諸住処。衆生見劫尽。大火所焼時。我此土安穏。天人常充満。園林諸堂閣。種種宝荘厳。宝樹多華果。衆生所遊楽。諸天撃天鼓。常作衆伎楽。雨曼陀羅華。散仏及大衆。我浄土不毀。而衆見焼尽。憂怖諸苦悩。如是悉充満。

 

【阿僧祇劫に於いて常に霊鷲山及び余の諸の住処に在り衆生劫尽きて大火に焼かるると見る時も我が此の土は安穏にして天人常に充満せり園林諸の堂閣種種の宝をもって荘厳し宝樹華果多くして衆生の遊楽する所なり諸天天鼓を撃って常に衆の伎楽を作し曼陀羅華を雨らして仏及び大衆に散ず我が浄土は毀れざるに而も衆は焼け尽きて憂怖諸の苦悩是の如き悉く充満せりと見る】

 

(文上の読み方)

 通解(六二五ページヒ段)にあります。

 

(文底の読み方)

 無始無終の御本尊は、永遠に霊鷲山にいらっしゃいます。また余の住処にもいらっしゃいます。総本山富士大石寺の奉安殿に、一閻浮提総与の大御本尊がおいでになりますが、あのところは霊鷲山であります。また余の住処と申しますのは、各寺院、われわれの家に御本尊がいますのをいい、ここも霊鷲山であります。これを分身散体と申しまして、御本尊の法体が厳然といらっしゃるのであります。

 

 ここのところは、二重、三重の講義になりますから、いっしょにしないで下さい。

 

 衆生が劫尽きて大火に焼かるると見るときも、わがこの上は安穏であります。大火に焼かるるという、この大火は煩悩を意味します。煩悩の大火に焼かるるときも御本尊をたもつところは安穏であります。天人は常に充満し、園や林やたくさんの堂閣は、種々の宝をもって荘厳しております。宝の樹は華や果が多い、そして衆生が遊楽しております。さらに多くの天は天の太鼓をうち、常に伎楽をやり、仏や菩薩方の大衆に曼陀羅華をふらしています。天の白い花を曼陀羅華というのであります。赤い花なら曼殊沙華であります。そして、わが浄土すなわち御本尊のあるところは毀われない、ところが、御本尊を知らずに邪宗をやっている人は、ことごとく焼き尽きてこの世の中は憂いや怖れや多くの苦悩があるところだと思っているというのであります。これはひととおりの言葉の解釈であります。

 

 次に、これを一念三千の法門に読む読み方をひとついたします。この大火所焼時から憂怖諸苦悩までは、御本尊のお姿であり、一念三千の依文になっております。

 

 これらを図示すれば、次のようになります。

 

三世間

我此土安穏……国土世間

衆生所遊楽……衆生世間

宝樹多華果……左陰世間

 

十界

散仏及大衆……仏、菩薩(及)

園林諸堂閣……縁覚

雨曼陀羅華……声聞

天人常充満……天、人

憂怖諸苦悩如是悉充満……修羅、餓鬼

諸天撃天鼓……畜生

大火所焼時……地獄

 

 また順次に申し上げれば、次のようになるのであります。

「大火所焼時」これは地獄界を意味しております。これをわれわれの身に当ててみるならば、世間がどんなに困るときでも、御本尊を受持すれば、生命の中に御本尊が在すことになり、一家中が信心していれば、家庭は我此土安穏の国土となるのであります。

 

「天人常充満」天界のような人、絶えず喜びが顔にあふれている人、静かな人間、その人たちが絶えず充満してなければなりません。ところが、反対だとたいへんであります。おかあさんはフクれているし、おとうさんは怒っているし、子供は泣いております。たまに人が入ってくると借金取りばかり、これでは、少しも天人常充満ではないのであります。

 われわれの家をよく考えてみましょう。天人常充満でありましょうか。くる人くる人は、良い人ばかりではありません。

 

 (天人常充満の家庭には)サギをしたり、ごまかそうとしたり、おどかそうとしたり、軽侮したりするような、悪い人はこないのであります。一家の中にはみな、天界、人界の人が、満ち満ちているのであります。

 

「園林諸堂閣 種種宝荘厳」園や林、家や堂閣は種々の宝をもって荘厳されております。この通り読めば、これはちょっと無理であります。いったい、園だの林だのといっても玄関さえない家があるのであります。諸の堂閣などといっても四畳半しかない人々が多いのであります。いくら御本尊を拝んだからといっても、すぐ堂閣なんかにはなりません。しかし、よく読んでみると諦める必要はないのであります。すまいに園や林なんかいつでも作れますどうせ東京の真ん中で園や林なんか作にるわけがないのでありますから、ミカン箱を買ってきて、そこヘシキミを一本植えて、わきの方へ、小さいきれいな木を十本か二十本植えて、朝水をやって楽しめばりっぱな園林であります。四畳半といえどもわが城なりという大確信の上に立って、宝をもって荘厳する、心の宝をもって荘厳できるのであります。

 

 壁でも、ネズミに食われて穴があったら、そこへ石でもつめて、きれいに紙をはれば、りっぱな宝であります。そこらじゅう散らかしておかずに、よくせいとんして、畳もきれいにふいて、奥さんの心をもって荘厳するのであります。

 

 また、今高いのは買えないから、おやじさんがタバコをのむのを止めて油絵の安いのを一枚買ってくれば、おとうさんの心の宝をもって荘厳したことになるのではないでしょうか。

 

 また子供が学校で優等の成績をとってきた、それを壁にはって、おとうさんとおかあさんが楽しむとすれば、それは子供の宝をもって荘厳したことになるのではないでしょうか。

 

「宝樹多華果」宝の樹は多くの華果を持っております。宝の樹とは、我此土安穏の国家においては、まずおやじさん、奥さん、それからせがれであります。家へ月給を侍ってくるおやじさんが宝樹であります。月給も持ってこないで、酒をのんだり競輪をやったりしてるようなおやじは貧乏の樹というのであります。

 

 女房に着物の一枚も買ってやれるくらいにかせぎ、借金なんかしないのであります。毎月、月末に質屋の札を勘定するようでは宝の樹とはいえないでしょう。

 

 奥さんも同じであります。御主人の取ってくる月給だけでまかないをして、ヘソクリをきらんと作る、これは宝の樹であります。子供は親孝行であります。主人は月給をたくさん持ってくる、奥さんは奥さんでよく働く、そには華や果を持ったということになります。

 

 この娑婆世界というものは、衆生所遊楽と申しまして楽しむところなのであります。しかし、現実は国じゅうが悩みだらけで、楽しめません。そこで大聖人は、御本尊を下さって「しっかりとこれを拝んで、末法は折伏の時なのだから折伏をしなさい。かならず、衆生所遊楽、この世の中を楽しく遊ぶことができる」とおっしゃって下さっているのであります。仏がおっしゃっているのに、このとおりになうないわけはありません。

 

「諸天撃天鼓」諸天は天鼓をうつとは、なにも、天界の人がきて太鼓を打つことではないのであります。われわれがみんな健康で食べる物もおいしい。これは、畜生道だと大聖人がおっしゃっておりますが、お腹が減ったときに、たとえ、まずくても、お新香と御飯でも「ああうまいなあ」というこの境地は、諸天天鼓をうっているのではないでしょうか。

 

 のどの渇いたときに、水を一杯飲む。「ああうまい」これも同じであります。おとうさんが、月に一回くらい、焼酎を一合くらい飲んで「ああ、うまい、うまい」という、この状態が諸天撃天鼓であります。

 

「常作衆伎楽」常に音楽がなっているというのは、なにもラジオではありません。これはおとうさんが帰ってきて「ああ、今日は愉快だったよ、こうだよ」おくさんは「おとうさん、今日は、隣の猫がニャンと鳴いたのよ」坊やは「学校の先生が歩いていたよ」そうして、一家が笑いさざめいて暮らせるとすれば、常に伎楽をなしているのではないでしょうか。

 ところが、オヤジが、破れ太鼓みたいな声でどなり出し、女房がキーキーいって、子供がオーッと泣く、これは、いい音楽ではありません。

 

「雨曼陀羅華」天から白い花が降ってくるというのは特別収入、ボーナスのようなものであります。オレの会社はまずい、まあ五千円もくれるか、などと思ったところへ、ポンと七千円はいってきたら、二千円だけは雨曼陀羅華であります。

 

「散仏及大衆」特別収入ですから「ああ、総本山へお参りしようか」と、それは仏に散らしたことになります。また、御本尊のリンを良いのと取り変えようとか、仏壇を買おうとか、本山に御供養しようとか、それが散仏及大衆であります。

 

「我浄土不毀」そうなれば、わが浄土は毀れないのであります。信心する者は、我此土安穏であって、我浄土不毀であります。信心しない者は、これと反対に大火所焼時であり、憂怖諸苦悩の世界に住まなければならないのであります。信心している者は、絶対に我此土安穏で、我が浄土はこわれない、この確信がなくてはならないのであります。