所経諸劫数。無量百千万。億載阿僧祇。常説法教化。無数億衆生。令入於仏道。

 

【経たる所の諸の劫数無量百千万憶載阿僧祇なり常に法を説いて無数憶の衆生を教化して仏道に入らしむ】

 

(文上の読み方)

 これは、仏の生命が永遠であって、たくさんの衆生を、仏の道へ入らしめられたと、一応は読むのであります。すなわち文上では、釈尊が寿量品において、五百塵点劫に仏となっていたということを明らかにした以上は、あらゆる仏が釈尊の分身仏になります。宝塔が空に立ったときに、そこにあらゆる十方国土の分身仏を集められて、釈迦・多宝・分身仏が集まって、霊鷲山の大儀式を行なったのであります。その集まった分身仏というのはことごとく、釈尊自体と同じ人なのであります。

 

(文底の読み方)

 すなわち、日蓮大聖人の御生命というものは、今日昨日に修行してできたものではありません。久遠元初の昔から、自分は仏であって、その生命が続いているのであります。いつも、この娑婆世界に住して、説法教化をしていたのだというのであります。

 

 すなわち大聖人の三身即一身、自我得仏来の境涯というものは、この大宇宙とともにあったのであります。けっして、今から七百年前に生まれてきて仏になったものではありません。比叡山で修行して仏の境涯を得たなどというものではありません。大宇宙とともに常住であって、に説法教化していたのであるというのであります。

 

 末法の御本仏日蓮大聖人、またの名を久遠元初の自受用身とも申し上げます仏が、ここに現われますと、あらゆる仏が全部、久遠元初の自受用身の分身仏になってしまうのであります。もう阿弥陀であろうと、薬師であろうと、久遠実成の釈尊であろうと、いっさいが久遠元初の自受用身の分身仏となります。

 

 ですから、あらゆる仏の教化というものは、ことごとく久遠元初の自受用身の教化だということが、決定されるのであります。それが今、その長い間、たえず娑婆世界にいて、説法していた。そして、たくさんの衆生をして、仏道に入らしめたとおっしゃる日蓮大聖人のお心のうちは、浄土であるところの娑婆世界に現われたいっさいの仏は、わが分身でありわが身の垂迹仏であります。

 

 こういうお心の上において、この自我偈を大聖人は、お読みになっていらっしゃるのであります。

 

 この分身というのはどういうことかといいますと、お山の大御本尊が中心で、われわれの家に安置し奉るところの御本尊は、みな三大秘法総在の御本尊の分身仏になるわけであります。分身仏というものは、御本仏といっさい変わらない働きをなさるのであります。

 

 この仏法上の意味からいいますと、阿弥陀であろうと、薬師であろうと、大日であろうと、ことごとく久遠元初の自受用身の分身であります。分身である以上は、薬師も阿弥陀も、ことごとく、南無妙法蓮華経といわなければ、仏の位置をはずされることになります。それがこわいから、彼らはかならず、南無妙法蓮華経ということになっているのであります。

 

 それを弟子どもが妙なことをいって、ナンマイダナンマイダ、紙屋の小僧みたいなことをいっているから、日本の国にろくなことが起こっていないのであります。

 

 爾来無量劫。為度衆生故。方便現涅槃。而実不滅度。常住此説法。

 

【爾しより来無量劫なり衆生を度せんが為の故に方便して涅槃を現ず而も実には滅度せず常に此に住して法を説く】

 

(文上の読み方)

 通解(六二四ぺージ下段)にあります。

 

(文底の読み方)

 それいらい長い間、無始の昔から、いっさいの衆生を救わんがために、方便して涅槃を現ずるのだとおっしゃっているのであります。涅槃は、その長い間、われわれを救わんがための方便であります。生命は永遠であると説きながら、なぜ死ぬかという問題をいっております。

 

 この方便現涅槃ですが、大聖人は、生死の理を人々に示さんがために、死を現ずるとおっしゃっております。われわれが死ぬということは方便なのであります。真実ではないのであります。

 

 だんだんとおじいさん、おばあさんになります。そして、この世の中で生存する生命力がだんだんと衰えてきて死ななげればなりません。この前の長行のときに申しましたように、われわれが死なないとしたら、たいへんに困ることが起こるでしょう。死ぬところにいいところがあります。

 おじいさん、おばあさんになって死んで、大宇宙の生命のなかに、われわれの生命が溶けこんでしまいます。溶けこむが霊魂ではありません、”我”というものが存在するのであります。の我が、いろいろな喜びや悲しみを感ずるのであります。業を感ずると申しまして、その結果は、また娑婆世界に、若々しい生命をもって赤ん坊になって生まれてくるのでありま

 

 ただし、生まれ変わるのではありません。生まれ変わるという言葉は、非常にいけないのであります。毎日お線香に火をつけて、御本尊を拝んでいて、あの長い火が短く生まれ変わったとばいわないでしう。生まれ変わるのではなくてただ続いただけであります。

 

 われわれの生命も、現世から来世へ続くのであります。大宇宙とわれわれの生命とは即一体であります。宇宙というものは、始まった時がありません、終わりもありません。生命も、始めもなければ終わりもないのです。永遠に生きてゆくのであります。

 

 過去世に行なった自分の行状というものが、自分の生命の中に、全部含まれてくるのであります。ここに仏法の大事さがあるのであります。「前にやったことは関係ない。おれは新しく生まれるのだから」と、こういいたいでしょうけれども、そういうわけにはいきません。

 

 なぜ貧乏人に生まれたのだ、なぜ頭が悪く生まれたのだ、こんなに商売を一生懸命にやっているのに、なぜうまくゆかないのだろうかと……みんな過去世にあるのであります。

 

 過去世にあるが、それをどう打開するかということが大聖人の仏法なのであります。

 

 生理学上われわれの生命というものは、五年間たつと、目の玉の芯から骨の髄まで細胞が変わってしまうのであります。これは今の医学で認めているところであります。だから五年前に借金したのは、払わなくてもいいことになるのですが、そでかんベんしてくれればよいのですけれども、借金取りはきちんと取りにきます。過去のわれわれの行動は未来において責任をおわなければなりません。

 

 それは、理屈の上ではわかりますが、実際問題としては困ります。

 そこで、大聖人の仰せには「あなた方は薄徳の人だ。だが、この大御本尊を拝めば、過去世でどんな悪いことをしておっても全部許されます。そして、善いことをしたと同じ結果が現われる」と。ですから信心が大事になってくるのであります。

 

 また大聖人は、永遠にこの世にあって題目を唱えることをもって、常住此説法といわれております。

 

 我常住於此。以諸神通力。令倒衆生。雖近而不見。

 

【我常に此に住すれども諸の神通力を以って倒の衆生をして近しと雖も而も見えざらしむ】

 

(文上の読み方)

 通解(六二四ぺージ下段)にあります。

 

(文底の読み方)

すなわち、われわれの生命の中には、日蓮大聖人即南無妙法薄華経という仏が住んでいらっしゃいます。しかし神通力をもって、仏のお力をもって、倒の衆生すなわち、ほんとうに信心をしない者には、近くにいらっしゃっても見えないのであります。

 

 また此という字は、娑婆世界であります。勘忍世界ということで、耐え忍ばなければ生きていけない世界であります。

 朝晩に拝む大御本尊は、大聖人の卸生命であられ、この世界におられます。しかし、近くにおられても、しみじみと、仏であらせられる、生きている仏さまであるということがわからない。それを近しといえども見えざらしむといいます。

 

 われわれの生命は永遠であります。しかし、この世だけだと思っている、世の中のことをひっくり返して見ている人には、これらがわからないというのであります。

 

「御本尊は紙に書いたものだ、印刷したものではないか、仏でも何でもない」と思う人は、さかさまに見た人であります。日寛上人は「御本尊をはっきり拝め、この中に仏の姿がありありとお出でではないか」と仰せられております。