諸善男子。於意云何。頗有人能。説此良医。虚妄罪不。不也。世尊。仏言。我亦如是。成仏已来。無量無辺。百千万億。那由佗。阿僧祇劫。為衆生故。以方便力。言当滅度。亦無有能。如法説我。虚妄過者。爾時世尊。欲重宣此義。而説偈言。
【諸の善男子、意に於いて云何。頗し人の、能く此の良医の虚妄の罪を説く有らんや不や。不なり、世尊。仏の言わく、我も亦是の如し、成仏してより已来、無量無辺百千万億那由佗阿僧祇劫なり。衆生の為の故に方便力を以って当に滅度すべしと言う。亦能く法の如く、我が虚妄の過を説く者有ること無けん。爾の時に世尊、重ねて此の義を宣ベんと欲して、偈を説いて言わく】
(文上の読み方)
諸の善男子よ、この良医が、方便を用いた、すなわち永遠の生命でありながら、死というものをもって、いろいろ教えてきているが、それは方便であった。それがウソつきになるかどうか、心でどう思うか、いや、そういうことはありません、仏よ、と善男子は答えました。
そこで釈尊は、自分もそのようなものだ、成仏してから五百塵点劫という長い年月がたっているが、衆生に法を説くために、方便の力をもって死ぬということをいったのだ。しかし、この釈尊のウソを責めるものはないでありましょう。
その時に釈尊は、重ねてこの義を説こうとして、次のような自我偈を説いたのであります。
(文底の読み方)
すなわち日蓮大聖人が今から七百年前の仏だと思っていたのに、じつは大聖人が仏という境涯を得られたのは、無量無辺・百千万億・那由佗阿僧祇劫という遠い遠い昔であったぞというのであります。
これは大聖人の御言葉どおり、われわれ衆生も同じであります。無量無辺百千万億那由佗阿僧祇劫だけ生きてきたのであります。この肉体のままに生きて行くのであります。ですから、衆生を度せんがためのゆえに、方便して死ぬといっておりますけれども、生命の当然の理論で、これは法の上において、偽りをいっているのではないというのであります。
(別 釈)
このように、自分の生命というものは永遠であります。この体のままで永遠に生きるのであります。ただ、おじいさんになってから赤ん坊になれませんから一遍死ぬのであります。そして、赤ん坊になって生まれてくるのであります。生まれ変わるのではないのであります。ちょうど、われわれが赤ん坊のときからこの年まで、ずっと続いてきているのと同じであります。途中で、切れたことはないでしょう。しかし切れたみたいなときがあります。ぐっすり眠っているときは、自分では生命があったのか、なかったのかわからないでしょう。しかし、夜の生命から朝の生命に生まれ変わったとはいわないでしょう。それと同じで、来世に生命が生まれ変わるのではなくて、この生命の続きなのであります。
たとえてみれば、朝起きて元気はつらつとして、晩になると疲れてぐっすり眠って、元気をとり戻すように、ずーっと年寄りになって死んで、その生命の続きが今度は赤ん坊になって生まれてきて、またおじいさんになって死んで、また生まれてくるのであります。
われわれの生命が、この世だけでないから、宗教をやかましくいうのであります。来世に生まれてきたとき、また四畳半へ生まれてきて、汚い着物を着て、年頃になっても満足な福運もなく、一生貧乏で暮らしたり、病気で暮らしたりするのはいやであります。生まれ落ちると、女中さんが三十人もついて、ばあやが五人もいて、年頃になれば、優秀なる大学の卒業生として、お嫁さんは向こうから飛びついてきて、良い子供を産んでりっぱな暮らしをして、死んでいかなければなりません。その来世の幸福を願うがゆえに、今、信仰するのであります。
今生もよくなければ来世がいいという証拠にはなりません。今生においてしあわせになるがゆえに、来世のことも仏の仰せどおり、確信できるのであります。安心して信心を続ければ、今生においてかならず証拠が出るのであります。
信心して一年か二年して「まだだめですか」そんなにあわてることはありません。六十で死ぬなら、五十五くらいからでもたくさんであります。五年間、毎日毎日楽しく暮らしたらいいではありませんか。それを三十代から「二年間やったけれどまだだめだ」そうあわてなくてもいいのであります。
貧乏の味も知っていなければ、楽しみの味もわからない。がまんして貧乏しろという意味ではなくて、かならず証拠が出るのであります。
信心を怠らず熱心にずーっとやって下さい。いくらやってもやってもだめだということは、実際にありません。断じて、そういうことにならないことを確信しているのであります。十年、二十年とやった人は、今まで、みんな幸福になっております。御本尊の功徳は、脳の中まで変わり、頭まで良くなるのであります。