作是教已。復至他国。遣使還告。汝父已死。是時諸子。聞父背喪。心大憂悩。而作是念。若父在者。慈愍我等。能見救護。今者捨我。遠喪他国。自惟孤露。無復恃怙。常懐悲感。心遂醒悟。乃知此薬。色香味美。即取服之。毒病皆愈。其父聞子。悉已得差。尋便来帰。咸使見之。
【是の教を作し已って、復他国に至り、使を遣して還って告ぐ、汝が父已に死しぬと。是の時に諸の子、父背喪せりと聞いて心大いに憂悩して是の念を作さく、若し父在しなば我等を慈愍して、能く救護せられまし。今者、我を捨てて遠く他国に喪したまいぬ。自ら惟るに孤露にして復恃怙無し。常に悲感を懐いて、心遂に醒悟しぬ。乃ち此の薬の色香味美なるを知って、即ち取って之を服するに、毒の病皆愈ゆ。其の父、子悉く已に差ゆることを得つと聞いて、尋いで便ち来り帰って、咸く之に見えしめんが如し】
(文上の読み方)
この経文の上では、使いの人が子供らに会って「お前の父はもう死んだ」といいます。子供らは、父の死んだのを聞いて、心に大いに憂いをもったというのであります。これはどういうことかといいますと、インドでは、中国でもそうですが、日本の今の制度と違いまして、父親というものが、みんな子供の恃みどころなのであります。父親が亡くなりますと、財産が子供にきちんと渡ればいいのですけれども、渡らない場合には、一家が没落しなければならない。また親が亡くなると、頼みどころがなくなってしまいます。そこで「もし父がいたならば、われらを加護してくれるだろう。父が死んでしまっては、自分はたった一人ぼっちだ」といって悲しみ、ついに目がさめるのであります。
(文底の読み方)
そこで、この教えをなし終わって他国へ行かれたということは、日蓮大聖人が御涅槃になったということであります。そして、使いをつかわされたということは、別しては、代々のお山の御法主上人であります。
また総じては、大聖人の御精神を奉じて折伏を行ずるわれわれであります。われわれは大聖人の御使いであります。何を憶することがありましょうか。その大聖人の使いが、貧乏だと泣いたり、借金をしたり、それでは、使いとはいえません。
この信心に反対する人は、生活に確信がもてなくなるのであります。ほかの何にすがっても、自分を守ってくれるものがないのであります。「自ら思うのに孤独にして頼むところなし」とは、われわれの信心する前の姿ではなかったでしょうか。
昔の歌に「おちぶれて袖に涙のかかるとき人の心の奥ぞ知らるる」というのがあります。商売がうまくいっているときには、友だちもたくさんできます。しかし、いよいよ貧乏してしまい、商売はうまくいかず、あっちも借金、こっちも借金というときには、自ら思うのに孤独であります。
どこへ行っても、金は貸してくれません。これが、まだ金の話だからいいのですけれども、いよいよ病気で死ぬというときがきたらどうします。自ら思うのに孤独でしょう。だれも頼りになりません。
ほんとうに、またそれが妙ちくりんな姑であったら、早く死んでくれなんて向こうで拝んでいるかもしれません。だれを頼りにしますか。初めてその時に悲しみをおぼえ、罰を感じて目がさめるのであります。
そして、ついに信心する決心をし、この御本尊を拝むならば、ことごとく悩みが解決するのであります。たとえ話では、この父は死んだのではないのだから、子供たちがことごとく病気がなおったのをみて、おれは死ななかったといって出てきて、子供たちに面会をしたというのであります。
ここのところはまた、おもしろい哲理なのであります。日蓮大聖人はすでに死んでおられます。久遠元初の自受用報身如来も、大聖人として再誕され現われるまでは、この娑婆世界にはいらっしゃらなかった。ところが、われわれは罪業の深い者で、大聖人の在世に漏れ、また大聖人の教化も受けなかった。けれども、今こうして折伏を行じ、御本尊を信じまいらせて、題目を唱えているならば、いつ御本尊を拝んでも、大聖人の生命と、われわれの生命とが、ぴたッとふれ合うのであります。
大御本尊が大聖人の顔に見えたなんていうのは、これはインチキであります。字が顔に見えるわけがありません。また大聖人にみえたなんていうのはおかしいのであります。
ただ大聖人の御生命と、われわれの生命とが触れ合うのであります。御本尊が厳然とお出であそばしていることは、ビリリと胸に感じてくるのであります。それは、どういうふうに感ずるかわからない。それは我というものなのであります。
われわれは自分というものをもっています。これは仏法では常楽我浄ともいっておりますが、常楽我浄の我は、われわれの肉体のどこにあるともいえません。この我を生命とも判読しておりますが、その生命に感ずるのであります。
日蓮大聖人の我と、われわれの我とがはっきり御目通りができるのであります。
これは、今の父が帰り来って子等に見えしむ、というところになるのであります。
(別 釈)
この経文の中に父という言葉があります。これには深い意味がありまして、この法華経というのは、厳父の愛なのであります。悲母の愛ではないのであります。釈尊の仏法は、どちらかといえば悲母の愛なのであります。母親のいわゆる猫かわいがりというものであります。あれは母親が子供をかわいがる、その仏法は釈尊の仏法であります。しかも小乗や権大乗教の愛であります。
ところが、この南無妙法蓮華経の教えは厳父の愛であります。賞罰厳然としているのであります。母親の愛ではないのですから、叱るところは叱る、愛するところは愛する、また徹底的に救ってくれる、これが父の愛であります。
われわれは御本尊をいただいております。これは朝三度しか拝まないとか、あるいは、どうとか、こうとかいうけれども、いざとなったら御本尊であります。
偉大な父親をもっています。それこそ真剣に御本尊を拝んだならば、かならず願いはかないます。けれども、むちゃな願いを立ててはだめであります。「明後日まで総理大臣にしてくれ」などと、それは無理であります。自分で努力をはらって、しかも、その上に父の加護を願わなくてはならない。われわれは心に憂悩がなく、安心しておられるのであります。
次に、よく懺悔のことをいうことがあります。大荘厳懺悔といって「若し懺悔せんと欲せば端坐して実相を思え、衆罪は霜露の如し、慧日能く消除す」と。端坐して実相を思えとは、端坐して御本尊を拝めということであります。衆罪は霜か露みたいなものであります。慧日能く消除すというのは、その罪はすぐ消え去るぞ、というのであります。
キリスト教徒のように黄色い声をだして、たくさんの人の前で懺悔なんか恥ずかしくてできますか。懺悔というのは悪いことをやって白状することであります。人の前でいえるものではないのであります。人の前で言わされたら腹がたつのであります。ですから、彼らは自分につごうのよいような、作りごとの懺悔をしているのであります。
われわれは悪いことをしたとき、御本尊の前で言ったらなおります。それでは毎日悪いことをしていいかなどという人があります。そういう考えはいけません。
次に、自惟孤露すなわち「自ら考えると、孤独で頼むところがない」とは、御本尊に反対して罰を感じたことであります。罰は当てるものでなく、出るものであります。不幸な境涯を感ずることであります。よく折伏に行って「罰を当ててみせる」なんて、さも自分が当ててみせるようにいう人がおりますが、そんなものではありません。罰というのは出させるものではない、自然に出てくるものであります。
それを、信心に反対すると、二日目に死ぬとか、十日目に災難がくるとか、そういうバカなウソは、言ってはなりません。折伏は慈悲の行であります。