諸子於後。飲他毒薬。薬発悶乱。宛転于地。是時其父。還来帰家。諸子飲毒。或失本心。或不失者。遙見其父。皆大歓喜。拝跪問訊。善安穏帰。我等愚癡。誤服毒薬。願見救療。更賜寿命。

 

【諸子後に他の毒薬を飲む。薬発し、悶乱して地に宛転す。是の時に其の父、還り来って家に帰りぬ。諸の子毒を飲んで、或は本心を失える、或は失わざる者あり。遙かに其の父を見て、皆大いに歓喜し、拝跪して問訊すらく、善く安穏に帰りたまえり。我等愚癡にして、誤って毒薬を服せり。願わくは救療せられて、更に寿命を賜えと】

 

(文上の読み方)

 通解(六二三ページ上段)にあります。

 

(文底の読み方)

 この文証こそ、創価学会の主張を、端的に表わしているところといえます。政治であるならば、妥協・提携は許されます。いな、必要であります。しかし、宗教は絶対でありますから、邪宗との妥協は許されないのであります。ゆえに創価学会は、いかに偏狭にみられようとも、あらゆる人を不幸にする、功徳のない他の宗教をば、邪宗と名づけ、徹底的に破折し撲滅するのであります。

 

 この文は、南無妙法蓮華経の御本仏がおられない留守に、末法の衆生が誤って、他の毒薬を飲んだとは、邪宗教を信心したのであります。日蓮正宗以外は全部毒薬なりと、はっきり釈尊が法華経寿量品に書き、これを天台・妙楽・伝教が引き続いて釈され、次に日蓮大聖人が御義口伝に、はっきりと、毒薬とは日蓮正宗以外の邪宗教であると、お説きになっておられるのであります。

 

 毒薬を誤って飲んだら、すなわち邪宗教を信じたために、その毒がからだじゅうにしみこんで、その毒が発し、悶え苦しみ、地をころげまわったのであります。じつに恐ろしいことでありますが、この毒薬は飲んですぐにはわからずに、十年、二十年とたってから、害毒がでてくるので、いっそう恐ろしいのであります。

 

 その毒薬の種類や、毒発して悶乱し地をころげまわる姿は、いろいろあるでありましょう。あるいは立正佼成会・霊友会・身延派・仏立宗の邪教を信じたり、あるいは念仏・真言・生長の家・天理教等の邪宗にはしったりして、小児マヒになり懊悩する親もあれば、借金取りに苦しめられたり、商売がだめになったり、一家が離散したりして、地獄の苦を味わうのは、地をころげまわる悶乱する境涯ではないでしょうか。大聖人にもせよ、釈尊にもせよ、邪宗教というものは、恐ろしいと、いいきっているのであります。

 

「是の時に其の父、還り来って家に帰りぬ」「是の時」の時という字は、末法と読むのであります。仏法では、時という字を、正法の時、像法の時、末法の時、あるいは仏の出現を感じた時、仏がこれに応じてお出ましになる時と、時の字を用いるのであります。

 

 その父が帰ってきたとは、すなわち自受用報身如来の再誕たる日蓮大聖人が、御出現になったのであります。「家」とは娑婆世界のことであります。末法にはいって大聖人が娑婆世界の中たる日本国にお出ましになった時に、あらゆる子供たちは毒を飲んで苦しんでいたのであります。すなわち、いろいろな邪宗をやって、本心を失っている者もあれば、失っていない者もあったというのであります。

 

 本心を失うとは、久遠元初において無作三身如来、南無妙法蓮華経のお傍にいて下種をうけた子であるということを忘れている逆縁の者であり、本心を失わない者とは、そのことを忘れていないで、南無妙法蓮華経を聞いて心に歓喜を生ずる順縁の人であります。そしていっさいの人々が日蓮大聖人の出現をみて、大いに歓喜して拝しひざまいて大聖人にお願い申し上げたのであります。すなわち「よく御無事でお帰りあそばされました。われらは愚かだったために、誤って邪宗を信心し、毒気がまわって苦しんでおります。願わくは、救われて、さらに寿命を賜え」と。

 

「更に寿命を賜え」とは、われらにあらゆる生活をのりきる強き生命力、すぺての悩みを解決する功徳を与えて下さいという意味の文証であり、この後に全部与えて下さるという、大聖人の御約束があるのであります。

 

(別釈)

 ここに一つの疑問がおこってまいります。日蓮大聖人御出現の時には、あれほどみんなで、憎んだではないか、にもかかわらず、娑婆世界にお出になった時、大いに歓喜して、お迎えしたということであります。これは二つに考えなければなりません。あれほどの大反対も、一つは歓迎の意味になるのであります。

 

 心を失わなかったところの、今名前が残っております、四条金吾殿にもせよ、南条時光殿にもせよ、後に法したけれども、波木井殿にもせよ、あるいは今の中山法華経寺の開祖である富木殿にもせよ、池上殿にもせよ、みなほんとうに喜んで、大聖人にお仕えしたのでありますから、歓喜してお迎えしたという言葉のとおりであります。

 

 次に、信心したらよくなるという文証は、どれかというならば、この更賜寿命の文であります。どうか救って、さらに寿命を下さいとお願いしたのに、大聖人はよろしい、御本尊を信ずれば寿命をあげようと御約束になったのであります。

 

 病気がなおることは、今までの病気という寿命を救療されて、生き生きとした新しい寿命をもらうことであります。観念文の五座のとき「私の商売に更に寿命を賜え、更賜寿命の御約束を、どうか私に与えたまえ」と、丁重に、慎重に、ほんとうに仏を信じ渇仰する心を持って、お願いするならば、お聞き届けないわけは絶対にないのであります。