所以者何。諸薄徳人。過無量。百千万億劫。或有見仏。或不見者。以此事故。我作是言。諸比丘。如来難可得見。斯衆生等。聞如是語。必当生於。難遭之想。心懐恋慕。渇仰於仏。便種善根。是故如来。雖不実滅。而言滅度。又善男子。諸仏如来。法皆如是。為度衆生。皆実不虚。
【所以は何ん。諸の薄徳の人は、無量百千万億劫を過ぎて、或は仏を見る有り、或は見ざる者あり。此の事を以っての故に、我れ是の言を作す。諸の比丘、如来は見ること得べきこと難しと。斯の衆生等、是の如き語を聞いては、必ず当に難遭の想を生じ、心に恋慕を懐き、仏を渇仰して、便ち善根を種ゆべし。是の故に如来、実に滅せずと雖も、而も滅度すと言う。又善男子、諸仏如来は、法皆是の如し。衆生を度せんが為なれば、皆実にして、虚しからず】
(文上の読み方)
通解(六二二ページ下段)にあります。
(文底の読み方)
なぜかといえば、われわれ末法の徳分の薄い者は、無量百千万億劫の間、日蓮大聖人にお目通りできる者もあり、できない者もあります。たとえ大聖人がおいであそばしておられても、われわれが人間として生まれ合わせない場合もあります。ゆえにわれわれが大御本尊にお会いするということは、宿縁が非常に深いことがわかるのであります。
そのゆえに大聖人は、次のように、仰せあそばされているのであります。「多くの末法の衆生よ。仏にはじつにあいがたいのである」と。そこで末法の衆生は、このお言葉を聞いて、なかなか仏には会えないのだという思いを起こし、心には大聖人をお慕いする心を抱いて大聖人を渇仰するのであります。そして大聖人に会えない者は、大聖人の御生命であられる、末法のわれわれに残しおかれた大御本尊を渇仰して、折伏を行ずるのであります。
このゆえに、大聖人は生命を滅しないけれども、生命原理において滅度があるとお説きになられたのであります。大聖人は形の上では滅すといえども、大聖人の御命、一念三千の仏界というものは、厳然として大宇宙に存在しております。
涅槃という姿を示すに過ぎないのであります。これ本有の涅槃であります。
末法の衆生よ、あらゆる仏も、みな本仏より迹を垂れられた迹仏であるが、やはり大聖人の仰せのごとく、滅度の姿をとられ、衆生を救われるのであるとおっしゃっているのであります。これはみな、真実で偽りではないのであるということであります。
(別釈)
われわれの生活は貧乏で悩み、子供のことで悩み、病気で悩み、不幸な生活の人のみであります。これをどうしたら救えるかと、心を砕かれ、悩まれ、日夜に化導されているのが、御本尊の御精神であります。
ゆえにその仏、御本尊にたいしては、恋慕をいだき渇仰の心を生じ、ほんとうに慕わしいという心がなければ、その人の信心はおかしいといえましょう。
「けさ、お経をあげてこないから、罰が出てこないだろうか」とか「やらなければ、何だか班長にもんくいわれるから」とか、そんなことではダメなのであります。
加えるに善根をうえ、すなわち折伏を行じ、これからのわずか二、三十年あるいは四、五十年の短い生活の間を何百万年、何千年にも一度お会いしがたい大御本尊にお目にかかれた喜びで暮らしていけることを感謝し、誇りをもっていきたいと思うので
あります。恋慕といい、渇仰といい、あくまでも御本尊中心でいきたいものであります。