所以者何。若仏久住於世。薄徳之人。不種善根。貧窮下蔑。貧著五欲。入於憶想。妄見網中。

 

【所以は何ん。若し仏、久しく世に住せば、薄徳の人は善根を種えず、貧窮下賤にして、五欲に著し、憶想妄見の網の中に入りなん】

 

(文上の読み方)

 この段は、教相においては、涅槃の功徳を説くのであります。

 

 仏が久しくこの世に住するならば、薄徳の人は善根をうえない。常に貧乏でいやしくて、また色欲、声欲、香欲、味欲、触欲という五欲に執著して、悪道の中において妄見の網にかかってしまうであろう、だらしのない思想に、全部落ち込んでしまうであろうと、涅槃ということが、仏に必要だということを説いているところであります。

 

(文底の読み方)

 日蓮大聖人が永遠の生命の中において、死を現ずるわけはどうであるかといえば、もし日蓮大聖人が仏として久しくこの世に住しておられるとすれば、まず生命の本理にかなわぬことになります。すなわち十界互具の生命において、仏の生命が常住とすれば、われわれ九界の常住となり、絶対に死なないという不合理が生ずるのであります。

 

 また大聖人が、この世で常住で死ぬことがないとすれば、徳分のない人は、大聖人によりかかって御本尊も拝まず、善根、すなわち、折伏も行じなくなるのであります。折伏を行じないゆえに、貧乏でいやしい生活に陥り、五欲に執著して、幸福な生活を送ることができず、かつまた、いろいろな思想、間違った見解の迷路の中に、落ち込こんでしまうだろうという文であります。

 

 その上に、われらの十界互具の生命が、いかなることをやっても、死なないというのならば、窮屈な自己向上に努めるわけはないから、それ以上のひどい状態になるわけであります。

 

(別釈)

 日蓮大聖人の仏法から読みますと、この如来というのは、別しては南無妙法蓮華経如来寿量品の如来でありますが総じていえば衆生であります。これは御義口伝において「日蓮等の類いの意は惣じては如来とは一切衆生なり」と仰せであります。この御意どおりに読んでいきますと、もし衆生が久しく世に住するならば、われわれが死なないということになるならば、薄徳の人は、久遠元初の自受用報身如来、すなわち、御本尊などはちっとも拝もうとしません。死なないということくらい、恐ろしいことはないのであります。

 

 衆生も人間だけならまだいいのでありますが、みんな死なないのでありますからたいへんであります。ネコも犬もネズミもタコもみんな死なない。これは困ったものであります。みんな死なないとしたら、どうなるか。たたかれても、殺されても、電車に

ひかれても、飯を食べなくても死なない。世の中はたいへんなことになります。おじいさんやおばあさんが、たくさんふえます。いつまでも元気でいるわけではなく、年をとれば病人にもなります。しかし死なないのであります。

 このように人間は、死ななくても困ります。また死ぬ時がわかっているのも困ります。もし三日しか生命がないとしたら、講義の本なんか読んでいられません。ですから、人間はかならず、死ななければならないものであって、死ぬ年月がわからないようにできているところに、世の中のおもしろさがあるのであります。これが妙なのであります。であればこそ、御本尊を拝むようにもなるのであります。

 

 じつに生命というものはおもしろいものであります。死ぬときをわからせないでいて、本人には生きたがらせておいて、死なせるようにできているのであります。ですから、日蓮大聖人が本有の生死である、本有の退出であると仰せられているのであります。

 

 そう思いますと、御本尊を拝まずには、いられなくなります。大聖人の仰せどおり、御本尊の功徳によって権・迹・本の仏の因行果徳を承継して、死ぬ前には、ほんとうにしあわせで、楽になって死なねばなりません。

 

 信心さえ強盛であれば、御本尊を信じきるならば、かならず死ぬ前、数年間、ほんとうにじょうぶで、お金があって、家が平和で、思い通りになって、……そのようになるとおっしゃっているのであります。そうでなければ、死後の成仏の証明がつかないのであります。

 

 死ぬまで貧乏したり病気したりしてはたまりません。病気の者ならかならず治り、心も平和で落ち着いて、行きたい所にも行ける。そうなると、苦労している間の方が、見込みがあるということになる。まだ生きるということがはっきりしているから。そう思うと、今は本有の貧乏でも、安心であります。