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 以諸衆生。有種種性。種種欲。種種行。種種憶想。分別故。欲令生諸善根。以若干因縁。譬喩言辞。種種説法。所作仏事。未曾暫廃。如是。我成仏已来。甚大久遠。寿命無量。阿僧祇劫。常住不滅。

 

【諸の衆生、種種の性、種種の欲、種種の行、種種の憶想分別有るを以っての故に、諸の善根を生ぜしめんと欲して、若干の因縁、譬喩、言辞を以って、種種に法を説く。所作の仏事未だ曾て暫くも廃せず。是の如く、我成仏してより已来、甚だ大いに久遠なり。寿命無量阿僧祇劫なり。常住にして滅せず】

 

(文上の読み方)

 釈尊が多くの衆生をながめると、人々にはいろいろの性分や、さまざまな欲望や、いろいろの行ない、いろいろの考えや分別があります。そこで、それらのものを縁として、多くの善根を生ぜしめようとして、いくばくかの因縁話や、たとえ話などをもって、いろいろに法を説いたというのであります。

 

 法華経の化城喩品には、釈尊が三千塵点劫の昔に、大通智勝仏の第十六王子として法華経を説いたというような、因縁話を説いております。また法華経には七つの大きなたとえ話を説いております。

 

 このように釈尊は五百塵点劫の成仏いらい、いままで、少しも、衆生を救うことをやめなかったというのであります。ここで釈尊は、自分は成仏してから、はなはだ大いに久遠である、五百塵点劫を経ているのであるぞと、厳然といいきっております。そして、常住して滅せずと、一応の永遠の生命を説いております。

 

(文底の読み方)

 日蓮大聖人が、末法に現われて衆生を見るのに、衆生にはいろいろの性分、いろいろの欲があります。仮に金が欲しいといっても、限度がみな違うのであります。いろいろの行があります。過去世の因縁によって、この世へきてやることがみな違う。また考え方や思想もいろいろであります。

 

 そこで、どうしてわれわれを救おうかと大聖人はお考えになり、現在のわれわれの状態を考えられたのであります。それが御本尊の御慈悲であります。すなわち、善根を生ぜしめんとして、御書にいろいろと説かれているのであります。善根とは折伏のことであります。

 

 そこで、われわれに折伏させようとなさって、

「今お前は貧乏であろう、過去に貧乏の因があるからだ。今、お前が御本尊を拝んで、南無妙法蓮華経と唱え、折伏を行ずるならば、過去世になかったところの金のもうかるという原因が、生まれてくるのだ。御本尊が下さることになっている。因行果徳の二法がゆずりあたえられるのだ」と大聖人は、観心本尊抄にはっきり約束され、因縁を説かれているのであります。また大聖人は、われわれが折伏して、福運を積むように、たとえを説かれるのであります。

 

 われわれは御書を拝して、大供養した人の行動と功徳を知る、それはたとえであります。今われわれが大聖人へ着物を奉ったとしても、それはたいしたことではないのであります。苦労もなにもないのであります。ところが、昔の人が、綿入れを大聖人に奉ったとすれば、たいへんなことであります。春に種をまいて、綿をとってそれをつむいで、自分で織る、そうして綿入れを作って差し上げるのですから、その人の信心の状態と、われわれの信心の状態と比ベてみるときにおいて、その人の行動は譬喩になるでしょう。また「ああ、あの人は、ああいう謗法をやったから貧乏になった」「あの人は仲間のものを憎んだから、一向によくならない」信心して功徳を受けてしあわせになった人を、われわれが聞くこともみな譬喩であります。

 

 また言辞とは言葉、大聖人の御説法、あるいは新聞を読み、あるいはラジオを聞くのも、信心を本として聞くがゆえに、世の情勢をも見通しがつけられます。大聖人はそこばくの因縁・譬喩・言辞をもって法を説かれ、折伏をやりなさいといわれて、功徳を下さるのであります。

 

 大聖人のお仕事は御涅槃なされて後七百年近い今日においても、まだ大御本尊のわれわれに善根を生ぜしめんとの御事は少しもおやめになったことがないのであります。このように、大聖人の生命というものは、久遠元初いらいであります。

 

 教相上における釈尊の生命は五百塵点劫からであります。この阿僧祇劫は、日蓮大聖人においては、久遠元初の意味になるのであります。そして、常にこの娑婆世界において常住であり、決して滅していないのであります。

 

(別釈)

 ところで、大聖人は、久遠元初の自受用報身如来であられます。それが第一番には五百塵点劫の釈尊と現われ、あらゆるところに、久遠元初の自受用報身の慈悲を垂れられ、衆生を見られて、特にこの末法へ大聖人がお現われになった。

 

 この原理は五百塵点劫に仏がいた。その中間には、然燈仏があり、その然燈仏と関係した儒童菩薩が釈迦如来と生まれた、われわれが大聖人を拝し奉れば、末法になってお現われになったのだと思うが、ほんとうは、そうではないのであります。

 

 久遠元初と知しめして即座にお悟りになった仏なのであります。

 それが種々の仏として、御自身がお出ましになり、迹を垂れられ、使いをよこされた。そうして末法には、御自身がここへお現われになった。中間の仏はことごとく、わが身仏であり、迹仏であります。みな久遠元初の自受用報身如来の息のかかったものであります。

 

 末法に大聖人が出現されたことについては、このように拝さなければなりません。

 

 次に、折伏以外には善根はありません。釈尊の仏法には布施行というのがあります。これが釈尊の仏法においても、この布施を物の布施と法の布施との二つに分けて、物の布施には限りがあるから普遍的にはいかない、だから法の布施をせよと、釈尊は最後にいっております。法の布施とは折伏のことであります。

 

 因縁ということについて、邪宗の者たちが「身延へおまいりしたら、途中のくだもの屋へも寄らない、因縁がくっつくから」などといっております。トリモチじゃあるまいし、因縁がくっつくというような使い方は、誤りであります。

 

 因縁とは過去に因があり、また助縁があって、そこに一つの現象が起こる、それをいうのであります。

 

 そういう所作を未だ曾て暫廃せず、おやめにならない。われわれには日曜日がありますが、御本尊には日曜日がないのであります。日蓮大聖人が「今日は休みだ」などといったらつごうが悪いでしょう。夜中に腹痛を起こして、御本尊を拝んでも、御本尊が寝ていて起きてこないなどといったら困ります。そういうことがありませんというのが未曾暫廃であります。

 

 仏は、夜中もお休みなくわれわれを守って下さいます。昼夜に、日曜日もなければ元日もない。ちょうど、これは畑にいろいろなものを植えた人が、いつ芽が出るだろうか、いつ花が咲くだろうかと思うのと同じ御心と拝します。仏さまが少しもお休みにならないとすれば、われわれみたいなものが、折伏のために一時間や二時働くことは当たり前のことであります。それでも仏の働きからみれば、何億分の一、何千万億分の一しか働いていないことになります。そう思うと、励まされるではありませんか。そうなれば、今日は寝たいと思うときでも、折伏にいこうという勇気がりんりんとわいてくるのであります。