所以者何。如来如実知見。三界之相。無有生死。若退若出。亦無在世。及滅度者。非実非虚。非如非異。不如三界。見於三界。如斯之事。如来明見。無有錯謬。
【所以は何ん。如来は如実に、三界の相を知見す。生死の、若しは退、若しは出有ること無く、亦在世、及び滅度の者なし。実に非ず、虚に非ず、如に非ず。異に非ず、三界の三界を見るが如くならず。斯の如きの事、如来明かに見て、錯謬有ること無し】
(文上の読み方)
ここは、報身如来を述ベているのであります。如来は如実に三界の相を知見せりとは、仏は、ありのままに、明らかに、三界の相を知っているというのであります。
三界とは、今の言葉でいえば全宇宙のあらゆる状態の場面、これを精神世界(無色界)、欲望の世界(欲界)、物質世界(色界)の三つに、仏法では分けていますから三界というのであります。
この次は法身如来を述ベております。「生死の、若しは退、若しは出有ること無く」とは、教相の読み方、釈尊の仏法観におきますれば、変易・分段の生死、煩悩の若退若出と読ましております。
「在世、及び滅度の者なし」とは仏の在世、仏の滅度、または衆生の在世、滅度というものはない、生老病死と変化するだけで、生命そのものは変わらないのだというのであります。
また人の生命は「実にあらず、虚にあらず、如にあらず、異にあらず」であります。すなわち生命は実在して厳然とそこにあるか、いや、そうではない。それでは、むなしい虚空のようなものか、いや、それでもないというのであります。
では同じものか、そうではない。異うのか、異うのでもないというのであります。
「三界の三界を見るが如くならず」とは、三界の真の姿は、自分の立ち場で、この世の中のことを見るようなものではないのだ、仏さまだけが、それを明らかに見て、あやまりあることはないのだ、というのであります。
(文底の読み方)
この如来は日蓮大聖人であります。大聖人は、あやまりのない宇宙観、世界観をもっておられるのであります。また大聖人のおおせでは生命の実相ということから見れば、生死ということはないのであります。生まれるとか死ぬとかというのは、永遠の生命のたんなる変化の状態をいっているにすぎないというのであります。
これ本有の生死であり、本有の若退若出であります。
われわれの苦しみというものも、楽しみというものも、本有のものであります。生まれてくるのも、死ぬのも本有のものであります。煩悩が出てきて困った、困る必要はない、本有の煩悩であります。そのように本有常住と見るところに生死もなければ、出るも引っ込むもないというのであります。
また仏やわれら衆生が、この世にいるとか、死んでしまったとかいうことも、永遠の生命という実体からみれば、一つの変化にすぎない。仏の生命の働きだというのであります。
本有の実に非ざるもの、また本有の虚しからざるもの、本有の如にあらざるもの、本有の異にあらざるもの、これが、われわれの生命の姿であります。
「三界の三界を見るが如くならず」とは、その各部各部から、のぞき見して、自分の見解で判断しているようなものではありません。欲界から見た宇宙観、無色界から見た字宙観、われわれの心だけで考えた宇宙観・世界観のように、一部から見たものと違うのであります。
大聖人は報身如来のお立ち場から、三界の相をきちんと全体観において知っております。三界を見ることにおいて、絶対にあやまりがない。三身即一身、一身即三身とおおせられる大聖人は、本有常住の御本仏であられるのであります。
(別釈)
「実でもなく虚でもなく、如でもなく、異でもない」という、法身の生命を、われわれの生命で、たとえていいますと「お前に生命があるか」「それは、あるさ」といいます。しかし、どれが生命なのかといえばわからない。
肉体でもない、心でもない。それでは生命がなくなってしまったようだ。なんだか、はっきりしないから、実ではないといいます。
「では、お前に生命はないのか」といえば、生きているのですから、ないというわけにはいきません。
それなら、お前の生命が、赤ん坊のときの生命と、今の生命と同じかといえば、同じというわけにはいきません。それでは違うかといえば、違わないのであります。
だから、違ったものでもなく、同じものでもない。隣にいる方の顔をごらんになって「お前の生命はほんものか?」「どうも、ほんものでもないようだ。変わっていくから」「ではウソか」というと「ウソでもない」「お前の生命と、おれの生命と同じか」
違う人間だから、違う生命です。違うかというと、同じように生きているのだから同じであります。なんだか、わけがわからないけれども、生命というものは、あることになるでしょう。それが、ここのところであります。
生命という概念はいえるけれども、それを持ってこいといわれると、さてわれわれにはわからないのであります。
次に「三界の三界を見るが如くならず」とは、われわれが世の中を判断して、自分の商売のことについての考え方というのも、この三界すなわち欲の世界、物質の世界、あるいは精神の世界とかいう三つの世界というものは、われわれが自分の立ち場で見るようなものではないのであります。仏の眼で明らかに見ております。だから、われわれが世の中のことを一から十までわかるわけはないのであります。わかるわけがないから、そんな間違いを起こす、病気にもなるのであります。
御本尊は、これを見て間違いがないとおっしゃっているのですから、御本尊を拝みまいらせて、御本尊の生命をこちらへいただくと、われわれのこの生命それ自体が、南無妙法蓮華経というものなのですから、御本尊の力がグーッとこっちへ出るのであります。
そうすると、世の中のことを見ても、大きなあやまりがなくなるのであります。われわれは凡夫でありますから、御本尊と同じ智慧は出るわけはありません。信ずることによって、御本尊のお力をいただいて、世の中をわたるのに、間違いないようにしていこうというのが、われわれの主張なのであります。御本尊を信じて、間違いのない人生を送ろうではありませんか。