諸善男子。如来所演経典。皆為度脱衆生。或説己身。或説他身。或示己身。或示他身。或示己事。或示他事。諸所言説。皆実不虚。

 

【諸の善男子、如来の演ぶる所の経典は、皆衆生を度脱せんが為なり。或は己身を説き、或は他身を説き、或は己身を示し、或は他身を示し、或は己事を示し、或は他事を示す。諸の言説する所は、皆実にして虚しからず】

 

(文上の読み方)

 もろもろの善男子よ、如来の説かれたところの経典は、みんな人々を救うためのもので、みな真実にしてウソではないのだというのであります。これは教相から釈迦如来の立ち場をとって考えますれば、阿含にしても方等にしても般若にしても、あるいは華厳にしても、みな如来の説かれたところのもので、ウソではない、ことごとく、五百塵点劫の一仏に帰すのであり、三世十方の仏の所作というものは、みな変わりはないのだといっているのであります。

 

(文底の読み方)

 これを、文底より拝すれば、末法の如来とは、はじめに申しましたように、南無妙法蓮華経如来寿量品ですから、南無妙法蓮華経の如来であります。今までにあらゆる仏土に仏があってその衆生に感応して現われたところの仏というものはこの題目のように、南無妙法蓮華経の諸仏が現われたのであります。南無妙法蓮華経如来寿量品のこの如来の説きたもうところの経典は、みな衆生を救わんがためであります。末法御出現の如来の説きたもうところの経典とは、日蓮大聖人の御書であり、根本は南無妙法蓮華経のほかはありません。

 

 南無妙法蓮華経という経典を、われわれが信じて行ずる以上には、かならず救われなければならないのであります。もし、救われなければ、仏がウソつきだということになります。

 

 或は己身を説き、或は他身を説きとは、己身とは仏界です、他身とは九界です。ここに或はという字が六つありますから、ここを六或といっております。これをまとめて申しますれば、大聖人の御身をお説きになり、お示しになり、大聖人の御振舞をお示しになるのであります。

 

 また次に大聖人に関係のあるところの己身、上行菩薩をお説きになり、上行菩薩をお示しになり、あるいはまた、久遠元初の自受用報身如来をお説きになり、お示しになる。または、大聖人に御供養を差し上げたものの功徳を示し、あるいはまた、大聖人にあだしたるものの仏罰を示すということであります。これは皆、応身如来の御振舞をお示しのところであります。

 このように説かれてきたところは、皆いつわりではないのであります。

 

(別釈)

 末法の御本仏、日蓮大聖人という仏さまが説かれた経典はたった一つであります。釈尊のように、いろいろな経文は説かれていないのであります。釈尊は、八万法蔵という、たくさんの経を説いています。大聖人は、南無妙法蓮華経というたった一つ、たった一言のみを説かれましたが、真実なのであります。それは衆生を救わんがためのものであります。

 

 ですから、大聖人が、南無妙法蓮華経と唱え、南無妙法蓮華経の御本尊を拝めとおおせられているのは、われわれ衆生を救わんがためであります。大聖人は、たくさんのことを説いていられるように思うが、ほかに説いていないのであります。

 南無妙法蓮華経ということだけを、ごらんになり、お説きになったのであります。

 

「大聖人、一番肝心かなめの説法を聞かせて下さい」「よしよし、そこへすわれ。南無妙法蓮華経、終わり」大聖人の三十年間の説法は、たった一言なのであります。ゆえに、われわれが御本尊を信じて題目を唱え、折伏をやれば、かならず救われるのであります。