諸善男子。如来見諸衆生。楽於小法。徳薄垢重者。為是人説。我少出家。得阿耨多羅。三藐三菩提。然我実。成仏已来。久遠若斯。但以方便。教化衆生。令入仏道。作如是説。
【諸の善男子、如来諸の衆生の、小法を楽える徳薄垢重の者を見ては、是の人の為に、我少くして出家し、阿耨多羅三藐三菩提を得たりと説く。然るに我、実に成仏してより已来、久遠なること斯の若し。但方便を以って、衆生を教化して仏道に入らしめんとして、是の如き説を作す】
(文上の読み方)
ところで、教相の上から説きますれば、釈尊現在の時を見れば、小法をねがう徳が薄く垢(あか)のたまった者があります。こういう者には、自分は若くして出家して、仏の智慧を得たと教えているというのであります。
釈尊の時代においては、法華経以外の小乗経を小法、邪教、未得道教、覆相教(ふぞうきょう)といいます。そうして、この小乗をねがう者は徳分が薄くて謗法の垢がたまり、法華経にあうことができません。
垢が重いというのは、欲とか、怒りとか、愚かとか、疑いとか、嫉妬とか自慢、我慢が強いとか、そういうものが重い者には「私は、インドで修行して、若くして出家して、そして仏になった」と説いて、仏の永遠の生命は説かないというのであります。
しかるに、真実をいえば、釈尊は五百塵点劫いらいの仏であるというのです。ただ方便して、衆生を利益し教導しなければならない、そういう立ち場から始成をいったにすぎない、仏の方便であるといっているのであります。
しかし、このような方便教を説くのも、結局は最後に、法華経によって永遠の生命をわからせたいからであります。釈尊はインドで仏になったのではありません。永遠の昔に仏になっていたのだということを説きたいがためであります。
これは、始成と久成という言葉で、教学問題などで扱われておりますが、始成というのは、釈尊という仏が、インドに生まれて仏になったのだと決め込んでいる経文を教えます。
久成とは、釈尊は五百塵点劫いらい仏であったのだという思想をいうのであります。
(文底の読み方)
これを日寛上人は、末法の今日において、久遠元初の自受用身すなわち大御本尊を知らない者は、小法をねがう徳薄垢重の者であるとおおせられております。一閻浮提総与の大御本尊を信じない、日蓮正宗以外のいっさいの邪宗をやっている者であります。
邪宗日蓮宗のやからは、日蓮大聖人が末法の御本仏であるということを知らないのであります。ただ教相外用の辺ばかりをみて、ぎりぎりのところで、上行菩薩の再誕ぐらいにしか思っておりません。富木殿でさえ、日蓮大聖人に面と向かって「御本尊を顕わされるという上行菩薩は、いつ出現されるのですか」と聞いたほどであります。
しかし、大聖人は御書のあらゆるところで、御本仏たるの御確信を述べられ、信ある者に久遠元初の自受用身如来の再誕たることをわからせようとなさっていらっしゃるのであります。また、われわれ全部が、久遠元初の自受用報身如来の眷属だということをわからせるために、いろいろの御書をおかきになったのであります。その御精神を伝えているのは、第二祖日興上人の門流たる、日蓮正宗のみであります。
(別釈)
日蓮正宗に敵対し、邪宗を信ずるものには、無始無終の永遠の生命はわからないのであります。その人々は、この世で生まれて、この世きりのものだとしか考えることができないのであります。キリスト教でも永遠の生命は説きます。他の宗教でも永遠の生命を口にするものがありますが、みんな観念的なものであります。この肉体がこのまま永遠に続いていくのだということをば、はっきりと認識していません。
また生まれてくるのだ、しかもこの娑婆世界に生まれくる、また人間に生まれてくるということを、だれも恐ろしくて、はっ
きりいっておりません。日本に生まれ変わりという言葉がありますが、生まれ変わるのではなく、生命が続いていくのであります。
この問題は、空観ということがわからないと、はっきりしてこないのであります。常楽我浄の我の常住であります。霊魂ではありません、霊魂なんかないのであります。そういうような、めんどうな哲学になります。
一生懸命勉強すれば、わかりますが、こんなにも勉強してわかったというのは「ああ、自分も永遠に生きて行くのだ」ということなのであります。「それなら、これを信じて、ああそうかと思えば、こんな苦労しなくてもよかったのだ」ということになるのであります。
本を買って頭を痛くして読んで、考えて、また読んで考えて、わかればよいけれども、頭の悪い人には、死ぬまでわからないかも知れません。
それよりも、日蓮大聖人のおおせを信じて、また御本尊を拝んだ方が早くわかるのであります。