諸善男子。若有衆生。来至我所。我以仏眼、観其信等。諸根利鈍。随所応度。処処自説。名字不同。年紀大小。亦復現言。当入涅槃。又以種種方便。説微妙法。能令衆生。発歓喜心。
【諸の善男子、若し衆生有って我が所に来至するには我仏眼を以って、其の信等の諸根の利鈍を観じて、応に度すべき所に随って、処処に自ら名字の不同・年紀の大小を説き、亦復、現じて当に涅槃に入るベしと言い、又、種種の方便を以って微妙の法を説いて、能く衆生をして歓喜の心を発さしめき】
(文上の読み方)
ところで、あなたは久遠のときより仏でありました、それから、その中間においても仏であり、また今日も仏であります。しかるに、なぜ、その仏にいろいろの違いがあるのか、こういう問題であります。
三世十方の諸仏をながめるのに、この仏土においては、こういう仏がある、また、説く経も、あなた御自身にしても、阿含を説き、方等を説き、般若を説き、華厳を説き、法華経を説く、そういうふうに差別して説かれるゆえんは、どこにあるのかというのであります。
こういう問題にたいして、もし衆生あって、その衆生が然燈仏であったときにもせよ、その前の仏であったときにもせよ、あるいは釈尊のときにもせよ、そのみもとに衆生が集まってきます。
すなわちこれを感応妙の原理と申しまして、仏法では経典の一番最初に「ある時仏○○にいましき……」という言葉があるのであります。それを一時と書いてあります。それを日本の訳者はある時と読ませておりますが、ちょうど、お伽話の昔々というようなものとおなじであります。
しかし、この一時という意味は、そうではないのです。いかなる一時かと申しますと、衆生が仏を感ずる、指導者を欲する、それに応じて仏が出現する、これを感応と申しますが、衆生の機根に感応して仏が出現する時を、一時といいます。若有衆生来至我所というのが、これと同じ意味でありまして、仏がこれに応じて種々の衆生の信等の諸根の利鈍を見ると説いております。
この利鈍も教相の上においては、いろいろと説かれております。すなわち、鈍とは人・天の根、利とは二乗の根、という意味に説いている人もあります。この衆生の信等というのは、仏教では、われわれの生命を種々に範疇を立てております中に、われわれの生命には信ずる力を持っている、これを信根といい、智慧の力を持っている、これを慧根といい、それから、精進根といって、物事に熱心に熱中していく、定根といって静かに一所に心をとどめておける力、念根と申しまして、念ずる力、その五根の利鈍をいいまして、これを機根と申しますが、それに応じて、どのようにして救っていけばよいかと考えて、その方法にしたがってこれを説いていく。
そういうふうに、仏の力を、衆生によって違えてきたのだというわけであります。
そうして、現われる仏の年紀の大小、名字の不同とは、そこに現われている衆生の信等の利鈍に応じて現われる仏でありますから、名前も違ってきます。たとえば、大通智勝仏とか、釈迦如来だとか、いろいろ違います。また、何年間にわたってその仏法に功徳があるか、わが仏法の正法は何年間、像法は何年間、
たとえば、釈尊の正法は一千年、像法は一千年、あわせて二千年をもって釈迦如来という仏の仏法は終わるわけであります。
いろいろな衆生の機根に応じて衆生を救うのが目的でありますから、仏の名前も、年紀もいろいろ違いがありましたが、もともとは五百塵点劫という時の一仏の働きであるといっているのであります。
そして名字の不同、年紀の大小を説いた仏も、まさに涅槃に入るといいまして、一応は死んでいるのだといっております。これ衆生を利益するための方便であります。
また、種々の方便をもって、微妙の法を説いて、信心の心、歓喜の心を起こさしめるのであるといっております。
(文底の読み方)
御本尊の前へ、われわれがまいりますと、われわれの信等を観じられて、われわれの信心を考えられて、そうして、度すべきところにしたがって、どのようにやったらこれがよくなるか、というお考えのもとに、大きな慈悲を下さるのであります。これが大御本尊のここに現われているお言葉になっているのであります。
ですから日蓮大聖人は「信心をしないで、功徳を受けられないからといって、日蓮が罪にはあらず」とおおせられております。
末法の御本仏日蓮大聖人は、涅槃に先き立って、われわれのために、大御本尊をお残し下さった。これは、まことにありがたいことであります。生きていらっしゃるときには日蓮大聖人とおおせられ、亡くなられては一閻浮提総与の大御本尊とおおせられる。これ名字の不同であり、年紀の大小であります。これは仏の正体であります。
文底深秘の大法においては、この涅槃は、永遠の生命でありながら、なぜ死ぬかという問題になります。死ぬのは十界常住本有の姿であると説かれるのが日蓮大聖人の仏法でありますが、ここで死ぬということが、もっとも不思議なことなのであります。仏法の解決すベき問題の最後は死の問題であります。これを、もっとも根本的に説き明かされているのが、日蓮大聖人の仏法であります。
あらゆる仏は、釈尊であっても、あるいは正像の仏であっても、権大乗の仏であっても、仏はみな微妙の法を説いて、歓喜の心を起こさしてくれるのであります。それなら、どの仏でもいいかといいますと、時というものがありまして、時によって、みな歓喜の心を起こさせてくれる仏が違うのであります。
今、釈尊が、かりに、ここに現われたとしましても、われわれを歓喜させてくれる力はありません。
ところが、日蓮大聖人は末法の御本仏でいらっしゃいますから、大御本尊を、われわれのために建立あそばされて、われわれがこの御本尊を拝むときに、微妙の法を説いて下さるのであります。微妙というのは、われわれは、どうして功徳の現象が起こるのか、どうしてしあわせになるのかわからないのであります。そのわからない絶妙な方法によって、大御本尊は、われわれに喜びの心を起こさせて下さるというのであります。
(別釈)
御本尊は度すべき方法を全部お知りあそばされており、われわれに慈悲をたれて下さるのであります。ですから、われわれが、五座三座のおつとめをきちんとやって、折伏を行じて、純真に御本尊を信ずるならば、絶対に不幸になるはずはないのであります。
それなら、信心していれば、寝ていても商売繁盛するかという人もあります。そんな道理にあわないことはありません。
商売は熱心にやらなければなりません。「法華を識る者は世法を得可きか」の文を、つごうよく読み熱心に商売をやらないで、金もうけをしようとするのは、ずうずうしいかぎりであります。
「それでは絶対の功徳とはいえない」などといっても、それは無理な話であります。釜の中へ米を入れて、それで南無妙法蓮華経、南無妙法蓮華経と唱えても、御飯になりません。
それと同じ道理であります。折伏をいくらやりましても、商売が不熱心でありますと罰をうけます。日蓮大聖人のお言葉の中に「御みやづかいを法華経とおぼしめせ」という御文があります。勤めをするのですから、宮仕えでしょう。勤めをすることが法華経だというのであります。商売をすることが、信心なのであります。その信心をやめては、ただ、御本尊を拝んでも、それはダメであります。
会社へ行って、一生懸命働いている。月給をくれる日に、庶務課なり会計課なりに、絶対に金をもらいにゆかないと決めたなら、金がはいってきますか。いくら金を渡したくても、渡す道がないではありませんか。それと同じ道理であります。くれる穴をふさいでしまっているのであります。やはり商売は熱心に利口にやらなければなりません。
「法華を識る者は、世法を得可きか」ということは、信心をする者は、こうやったら商売がよくなるとか、こうやったら病気がなおるとかいうことが、わかってこなければいけないのであります。信心すれば、世法のことに明るくなって、いつまでも、世間的にもバカではなくなるのであります。
次に、御本尊はわれわれに歓喜の心を生じさせるのであります。ですから、われわれの心に「御本尊はありがたいという心が、いつも起こるようだといいのであります。しかし、人間というものは、なかなか欲の深いもので、ことに新しく信心した方は、すこぶるそうなのです。御利益のときだけ「ありがたいッ」他のときは「お勤めだから、やらないと罰が当たるし、利益が出なくては困るから」という、お義理の形式だけの信心の方がおります。
それでは困ります。御本尊を毎日「ほんとうにありがたい、容易におあいできない身でありながら、こうしておあいできたのは、ほんとうにうれしい」という、御本尊によって、歓喜の心を生ずるようでありますと、ほんとうは功徳が早いのであります。しかし、こればかりは「それ、歓喜、歓喜」などといっても、歓喜は出てこないのであります。「歓喜を起こせといったから、さあ喜んでやろう、さあ喜んでやろう」といったけれども、お勤めで足が痛くなってしまって「まだ終わらないか、ああ歓喜、歓喜」それでは歓喜になりません。一日も早く歓喜の心を起こすようにならなければならないと思うのであります。